徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

人間の人間たる所以ー「分かち合う」

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嵐山の紅葉

暑さが和らぎ、そして寒いとすら感じるときがある今日この頃。すでに、紅葉のみられるところも報告されるようになりました。今年は秋刀魚が豊漁だそうで、安く太った秋刀魚が手に入るか楽しみですね。わたしは、京都出身なもので秋の紅葉は楽しみでなりません。渡月橋からみる紅葉、高雄神護寺でみる紅葉、鞍馬の貴船神社の紅葉、これらがわたしにとっての秋の紅葉なんです。秋は豊かな食彩の時期。丹波の松茸やくり、九条ネギや堀川ゴボウなども旬を迎えます。

 

秋は食材の時期でもあり、試作の時期でもあります。たまに歩いた哲学の道高瀬川沿いの小道は、なんとなくもの悲しい雰囲気もあり、考えに耽ってしまう。四条河原町を上がったところにある名曲喫茶『築地』に立ち寄ることもしばしば。浪人中は、西田幾多郎三木清の著作を読み、なんとなく哲学に憧れたのを記憶しています。

 

さて、岡潔(おかきよし)という名前をご存じでしょうか?日本を代表する数学者ですね。当時世界中の数学者が難問で避けていた多変数複素関数論の研究で人間業とは思えない仕事をした人です。戦前、戦中、戦後を生きた人です。

 

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岡潔は数学者であると同時に、岡哲学とでもいうことが出来る多くの思索を残している。『春宵十話』(しゅんしょうじゅうわ)や『紫の火花』(むらさきのひばな)はその代表的な著作物です。かれの思索のなかでの一つのキーワードが「情緒」、岡潔は言う「数学の本質は『計算』や『論理』ではなく、情緒の働きだ」と。解りますか?

 

「数学の発見をするとはどういうことか。高い山のいただきにある美しい花を取りに行くようなものです。もともと美的感受性がないと、花を手に入れようとも思わない。そこに花があることにも気づかないし、登っていく意欲も湧かないでしょう」と説明されれば解りますよね。

 

岡潔は、日本の教育を憂い著作の中で多くのことを述べている。「人間は動物だが単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽を継いだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したもの」とし、戦後の教育は動物性を伸ばしていると憂うのである。「人たるゆえんはどこにあるのか。私は一つにこれは人間の思いやりの感情にあると思う」「人の心を知らなければ、物事をやる場合、精密さがなく粗雑になる…対象への細かい心くばりがないと言うことだから…いっさいのものが欠けることに他ならない」。

 

ここで動物性と表現されているのは、生存本能や闘争本能のことのようです。受験に端的なように「人より高い成績を」とか「人に負けてはいけない」とか親や教師から聞かされることがあるでしょう。情緒すなわち人間の思いやりの感情や対象への細かい心くばりがどこかへ追いやられてしまう様ですねじっくりと時間をかけて人間性を成熟させるべきであると深く危惧されているわけです。

 

そして、純粋直感による少しの打算も分別も入らない善行を積み重ねることを強調されている。例えば、ある大人が通勤途中に川で溺れている小さな子供を見つけたとき、とっさに飛び込み、子供は助かったが助けようとした大人が亡くなってしまう、なんてことがありますよね?このとき、この大人は「池は深いのかなあ?泳げるかなあ?助ければ感謝状がもらえるかなあ?」などどと考えた末に飛び込んだ訳ではないですよね。これは、ちょっと極端な善行の例ですが。つまり人の悲しみを全く自分のこととして受け止めること、決して悲しんでいる人を見て「かわいそうだな」と同情したり、「きのどくだな」と哀れむことでもないのです。あの宮沢賢治の『雨ニモマケズ』と同じ思いです。

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さて、岡潔日本国憲法について面白いことを言っています。「なっとらん!」と、日本国憲法前文を評します。「日本国憲法前文に、「自由」・「平等」はたっぷり謳われていますが、「博愛」が入っていない。自由・平等は“自己主張”、博愛は“自己犠牲”、自分の感情を抑えないと他人の気持ちはわからない。博愛こそ、社会を営む基本。」という風に。「自由・平等・博愛」とはフランス革命のスローガン・精神でフランスの3色旗はそれを表現しています。

 

わたしは、大学で憲法学(国法学)を学びましたが、これは非常に新鮮だと思いました。「博愛」憲法上の条文にするのは難しいけれど、前文の精神に書き込むことは出来ると思います。しかし、岡潔の主張はもっともだと思います。

 

博愛=自己犠牲、純粋直感による少しの打算も分別も入らない善行、まさにこれこそが人間が多の動物と区別される所以であると思います。しかし、ひょっとすれば「岡潔は仏教に被れていてこれは単なる彼の思想に過ぎないんじゃないか?」と疑義を持たれる方もいるかもしれませんね。

 

ところが、わたしたちの存在そのものが、それを科学的に証明する証拠なんです、といったらどうでしょうか?「ほんとう?」って思いますか?考古学の発見や脳科学の実験などさまざまな実験を通してこの人間と動物の違い、人間が人間である所以が解き明かされるのです。

 

NHKが制作した『ヒューマン なぜ人間になれたのか』をご存じでしょうか?「人間とは何か。人間を人間たらしめているものとは一体…。現在、地球上に70億人いる人類。民族、宗教、イデオロギーはさまざまだが、誰もが共通して持つ“人間らしさ”、それは20万年という進化の過程で祖先から受け継いできた、いわば“遺伝子”のようなもの。それは今もこれからも私たちの行動を左右していく。私たちはどのように生きるのか。私たちの底力とは何なのか。“人間らしさ”の秘密に迫る。」(出典:NHK

 

この番組に紹介される内容を順不同にみてみましょう。そうするとあることが判明してきます。

 

第1に「幼児の精神的な病気」と紹介されるアメリカでレポートされた事実です。親のいない幼児91人を調べたところ2歳になるまでに37%の幼児が命を落としていた。どの子も栄養や衛生は問題なかった。発見されたその要因は、「Lack all human Contact」、つまり「コミュニケーションの欠如」であった。幼児に対する話しかけは行われず、ひとりぼっちであったのです。これは幼児だけのことではないのです。母親もひとりぼっちで悩み、病に陥ることはまれではないでしょ。

 

こんなことは、チンパンジーや多の動物の世界ではあり得ないことです。これをみて思い出したことがあるんですが、かつて、狼に育てられた少女のドキュメンタリーを読んだことがありました。人間に発見された時は四つん這いで歩き走っていた。当然、言葉はしゃべれない。赤ちゃんは、育てた親が日本語でコミュニケーションすれば日本語を話すようになるし、英語あれば英語を話すようになる。猫が生まれてから人間に育てられたからと言って、人間の言葉をしゃべるだろうか?二足歩行するだろうか?この少女は、人間の行動がとれるように戻そうとしているうちに死んでしまいました。

 

ということは、人間だけが人間になるために他者としての人間を必要とするといえないだろうか?

 

現在も、人間と他の霊長類の脳の差異に関する研究が行われています。人間とチンパンジーの違いは、遺伝子のコーディングのうち2パーセント未満にすぎません。どのようにして、これほどまでにほかのサルと似ている人間のDNAが、大きな脳の違いの原因となっているかを解明することが研究の目的です。

 

人間の脳では、チロシンヒドロキシラーゼ(TH)遺伝子として知られるものが、より多く発現していたことが判明し、これは神経伝達物質ドーパミンの合成に一役買っているということが判明しています。そして、新皮質には、ドーパミン作動性介在ニューロンドーパミンを主要神経伝達物質として利用するニューロン)が存在し、これが大型類人猿には欠けているとも判明しました。

 

「興味深い発見です。なぜなら、ドーパミン作動回路は多くの重要な認知機能、気分の制御、作業記憶の機能に関係しているからです」と、ピサ大学生物学科の研究者で今回の研究に参加したマルコ・オノラーティは『WIRED』イタリア版に語っています。しかし、わずかこれだけであることも事実なんです。

 

とはいえ、比較的容易に出来る実験でそれ以上の違いが分かってきます。更にそれらを紹介しましょう。

 

2匹のチンパンジーを使った協力行動の実験です。写真のようにプチとマリを仕切られた檻の中に入れます。プチの檻の前に手を伸ばしても届かないところに好みの飲み物を置きます。マリの側にはステッキを置いておきます。プチはステッキを使って飲み物をとるために、マリが手にしたステッキをさして貸して欲しいという仕草をします。それまでマリは知らん顔していますが、手を伸ばして貸して欲しいジェスチャーをしたのをみて、プチにステッキを渡します。プチはそれを使って易々と飲み物をとり飲むことが出来ました。もちろん感謝の印にとマリに飲み物を分けるなどということはしません。

 

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2度目に同じことをやってみます。人間ならマリに解っているのだからステッキをプチに渡してやればいいのにと思いますが、プチが明示的に貸して欲しいというジェスチャーをするまでは、全くの知らんふりです。つまり、おもんぱかったり、思いやりで自発的に協力したりという行動をチンパンジーはとらないということが解ります。この実験は、異なったチンパンジーで地道に根気よく何度も実験を行っているが、結果は同じでした。

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どうしてでしょうか?番組の中ではこう説明しています。人間の場合、狭い産道でしかも横向きの径の長いところから回転しながら生まれ出るには、身体の小さい赤ちゃんの状態で生まれなけばならず、基本的には難産になり、生まれ出るときから他者の手を借りて生まれ出ます。成長するのにも他者の協力が必須であるためだと説明しています。たしかに、チンパンジーは、お産の時は全て自分一人ですよね。なるほど、この時点から人間は他者の自発的な協力を必要とするわけですね。

 

狩猟採取で生活をたてていた古代社会では、非常に平等な社会であったことは知られています。現在でも古代社会と同様な暮らしをしている部族は世界にいくつもあることは知られています。当然、狩猟採取をするわけですから、食物は時には部族の人数をすべておなかを満たすだけとれない場合もあります。また、協力しないと狩猟も出来ません。生きるためには協力が必須なのです。ですから、誰が獲物を捕っても皆で平等に分けます。そして分け前にあずかった人は、お礼を言うわけでもない。なぜなら、平等に「分け合う」ことが当たり前のこと、自分が獲物を捕獲出来ないときも、分け前にあずかり生きていけるためなんですねえ。

 

また、児童心理学の研究から次のようなことが分かっています。人間の乳児の最初の行動のひとつは物を拾って口のなかに入れることです。次の行動は拾ったものをほかの人にあげることです。それは世界共通だという。米国でも、欧州でも、日本でも、乳児は同じような本能的な行動パターンを示すという。

 

ここまでで、どうやら人間の人間たる所以は、「分かち合う」「助け合う」ことにあるようだとわかりますね。ここからは、人間は他者をどのように認識するかという実験や事例が登場します。そして、よりその人間たる所以の核心に迫ってゆきます。

 

イラク戦争を覚えているでしょうか?あるときアメリカ軍が地元の宗教指導者と折衝しようとある街を訪れたとき、住民はアメリカ軍が宗教指導者を捕縛に来たのだと思い込み、アメリカ軍の行動を止めようと向かってきたことがあった。口々に帰れ帰れと叫び、アメリカ軍を取り囲んだ。対話しようにも言葉が分からない。とっさにアメリカ軍の司令官は部隊に向かって思いもよらぬ指示を出した。「everybody smile」(笑うんだ)! すると事態は一変し、住民は敵意がないことを理解した。

 

この司令官が言うには、「私は89カ国へ行っているが、言葉の壁はあっても笑顔がつうじなかったことはありません」。「笑顔」が、協力関係を築く糸口になっているのでですね。

 

赤ちゃんにこんな絵を見せる実験がありました。鉢の上に野菜をのせた絵です。これを逆さにすると帽子をかぶった人間の顔に見えるのです。この二つの絵を見るとどのように赤ちゃんの脳が反応するかという実験です。顔に見える絵を見せたときは、野菜に見える絵の時と比べて盛んに左脳が反応していることが解りました。次に、目の機能は正常で脳の視覚野へは見た画像は送られているが、その視覚野が損傷しているために最終的にその画像が認識できないという黒人の男性がでてきます。この男性に、怒ったり、不機嫌な顔をしている顔の画像と、笑ったり、微笑んでいる顔の画像を複数枚見せます。驚いたことに、男性は「ポジティブ」な表情か、「ネガティブ」な表情かを確実に答えることが出来るのです。四角や丸などの図形では、一切認識できないのにです。どういうことでしょうか?

 

これは専門的には「blindsight」とよばれています。どういうことかというと、表情をみている場合、脳の中で活動しているのは視覚野ではなく、扁桃体という場所であることが解っています。扁桃体は、命に関わる情報を処理する場所として知られています。どの人間でも、無意識のうちに他者の喜怒哀楽の表情をこの仕組みで推察しているわけです。

 

つまり、赤ちゃんと同様、人間はその歴史のはじめから仲間とともに生きることが必要な生き物でした。だからこそ、相手のうちにある感情、すなわち喜怒哀楽を認識する能力が備わっているのだと、科学者はいいます。この仕組みが、人間の自発的な協力を生む鍵なのです。これは、人間が集団で生活するために備わっている機能といえるでしょう。

 

チンパンジーの実験、イラクの例、赤ちゃんの実験、画像を認識できない人の例、どれをとっても人間だけが「無意識のうちに他者と協力し合う」ことが出来ることをしめしています。がしかしです。キイロタマホコリカビという粘菌も協力し合うという例が出てきます。周りに食べるものがなくなり生命に危険が及んだとき、十万匹以上が集まって集合体を作り始める。その目的は、高く伸びた先に胞子をつけ遠くに飛ばすためです。この先端部分の胞子だけが遠くに飛ばされ生き残るわけです。残りの細胞は全て犠牲になる。人間には出来ないですよね。この協力はすごいが、確かな限界がある。集まり協力し合うのは、同じ遺伝子のグループに限定されてると言うこと。人間で言えば家族や限られた親戚だけということになる。

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人間は違う!

 

どうして人間は、世界中拡散してに移動し生存できたのだろうか。きっと他者と笑顔で分かち合い生き延びてきたからだろうと推測できる。実験は続く。

 

無作為に抽出した人に、一定額のお金を渡し(例えば1万円札10枚とか)、それを全て自分のものにしても良いし、他人にあげても良いので好きなようにしてくださいといってそばを離れる。この実験を多くの人に行うと一定の傾向がみえてくる。どの国、どの場所でも、人に分け与えないと言うことはなく、少なくとも20%は他人に分け与えるというほぼ同様の結果になりました。

 

さて、日本ではどうだったのでしょうか?結果は、自分が56%をもらい、44%を他人に分け与えるという結果になったそうです。どう思いますか?まだ、他者と笑顔で分かち合う機能は生きているんですね。

 

アフリカのカメルーンのある街に、世界中の研究者が注目する場所があるという。第二次大戦後に貨幣が使われ始めた村で、少し離れた密林の村ではまだ狩猟採集生活を送っている村がある。それぞれは同じバカ族です。その二つの場所の人々をモニターし比較しているのです。先ほども記述したように、狩猟採取で生活しているほうの村では、獲物を平等に分け合う。この村でもっとも嫌がられるのは、分け与えたことを自慢したり、隠し持ったりすること。ですから、人から抜きん出て成功しようとする人は出てこない。しかも富を蓄積することが難しい社会です。お金が現れる遙か以前は世界中そうであったようです。

 

では、お金が生まれるとどうなったのでしょうか?その最初であるメソポタミア文明を生んだシリアのハッサケ地方をみてみます。世界最初の都市といわれるテルグラフはここにあり発掘が進んでいます。その発掘で解ったことは、麦がお金の役割をしていたということです。麦を通してものが交換されるわけです。この交換という行為も人間しか出来ない行為であることをご存じですか?

 

このころから、職業というものが生まれ細分化していきます。麦を始め穀物の生産も3倍に拡大しています。つまり、交換が盛んになったため麦が大量に必要になったのでしょう。そして、より大量に麦や穀物を生産できる技術を持ったものが現れ、人口も急激に増えていきます。この後、次々と都市が建設されていきます。

 

そして、ギリシャアテナイで、民主主義、哲学などが生まれます。そしてもう一つ、それは銀貨です。刻印によって純度が担保された銀貨ですね。物々交換だと、お互いに欲しいものを持っているとは限らず、自分が持っているものと欲しいものを持っている人を見つけなければ交換は成立しません。しかし、価値を担保されたお金を介することによって交換は非常に楽になり経済を発展させることになりました。この通貨で交換を可能とする経済圏はたちまち拡大します。しかも、麦などと違い、貯めることができるという重要な特徴があります。

 

通貨は、麦などと違って腐ることもなく永遠の価値を持ちます。そこで、先ほどのバカ族のもう一つの村、通貨が流通し始めた村です。この村のある村民が、いままではとってきたものは全て分け合っていたにもかかわらず、分け合う前に一部を都会から移住してきた商人のところへ持って行き、売って通貨に変えたのです。この村民はこう言ました「みんなには悪いと思ったのですが、どうしてもお金が欲しかったのです」と。彼はこのお金で石鹸や塩を買いました。

 

そして、その後この村民は、高値で売れるカカオを育て、もっとお金を手に入れようと計画しました。作業員を出世払いで雇い、土地を耕し始めます。こして、狩猟採取のその日暮らしの生活から、長期的的な展望を持った生活に変わっていきます。しかも、主従、いや雇用関係も生まれたわけです。「分かち合う」という関係を犠牲にしたわけですね。

 

このように、本来人間たる所以であった「分かち合う」を駆逐していったのは、農耕と貨幣であることが解っています。そして、格差が生まれ始め持てるものが支配者となり、土地を耕すものから税金を徴収し始める。支払いを満たせない場合は家族を引き裂き、奴隷として売り飛ばすことも始まります。この欲望による暴走を抑制するために、「アマギ」といういわば徳政令のようなものを、メソポタミアではほぼ毎年行っていたそうです。そやって、奴隷にされた人を社会の一員として復帰するチャンスを与えていたということです。

 

 

貨幣への欲望が高まるのは、脳科学的には快楽を司る腹側線条体といわれる部分が関係しています。株取引をしているディーラーを観察すると、儲かる金額が多ければ多いほど腹側線条体が活発に活動していることが解ります。つまりお金を求める欲望にはきりがないように見受けられます。

 

ここで面白い実験をみてみましょう。2人の人を向かい合って座ってもらいます。そしてくじを引いてもらうんですが、一つは「Rich(お金持ち)」もう一つには「Poor(貧乏)」と書いてあります。「Rich(お金持ち)」を引いた人には参加料として80ドルを、「Poor(貧乏)」を引いた人には30ドルが渡されます。つまり格差をつくるわけですね。このあと50ドルを一人に配るのですが、「Rich(お金持ち)」に配って合計130ドルになったとき腹側線条体が少し上昇します。つまり喜んだわけですよね。こんどは、50ドルを「Poor(貧乏)」に配って双方が同額になったとき、つまり格差がなくなったとき、「Rich(お金持ち)」の腹側線条体は極めて激しく反応したんです。

 

この測定を20人に行うと、なんと腹側線条体の上昇率は5倍も大きかったのです。お金を儲ければもうけるほど、腹側線条体は大きく上昇し快楽を感じると思われていたのとは逆の結果だったということが解ったわけです。公平であること、差がなくなるということを、脳はとっても気にしており喜ぶのだといえます。ここで重要なことがあります。この二人は、面と向かって座っているということです。つまり、目の前でおこっている格差を慮って、「分かち合う」という心が動き始めると言うことです。

 

岡潔は、人間たる所以であるつぎ木された人間性、つまり人間の思いやりの感情(「分け与える」)をじっくりと育てる必要があることを、一貫してその著作で述べている。動物性が勝り始めた世を憂えてのことである。わたしたち人間には、他者を前提に共存し、「分かち合い」、公平であることを喜び、無意識のうちに利他性を発揮する、能力が存在することは科学的にも証明できる。

 

がしかし、それを阻み動物性の頭をもたげる要因が、農耕と貨幣によって再生産されているのが今の世。そうなると、教育されトレーニングされなければ人間性という芽を覚醒することは出来ないわけです。証明もできない、考古学上の発見でどんどん変わっていく進化論などを教える時間があれば、動物・昆虫・植物・その他一切の生物の驚くべき造りをつぶさに観察することを通じて、自然への畏敬を育てる方がよほど人間性を深く理解することに役立つはずです。

 

人類がそれに気付き、まずは自分の中に備わっている「分け与える」という人間性に従った生き方・行動をして欲しいものだと思う。止めどもない欲望に駆り立てられることへの歯止めとしての「アマギ」がまさに必要なのです。

 

でわでわ

地球はまわる 君をかくして!

 

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今日は2021年8月28日、一昨日悲しい訃報がフィリピンのマニラより届きました。皆さんもご存じのように、新型コロナウィルス:Covid19に連日多くの方が感染し亡くなる方も増えています。日本ではパンデミックの中オリンピックやパラリンピックが開催とされ、先手をとって十分な医療対策が施されないこともあって、自宅隔離を余儀なくされ、亡くなる方も増えています。しかも今や若年層まで重症化するケースが増えていますね。

 

これが医療先進国の現状なのです。厚生労働省のDMAT次長として各地のクラスター対策に飛び回っている弟の話では、高齢者施設では一度クラスターが発生すると感染を恐れて介護士や介護ヘルパーが休みがちになり、十分な措置が出来ていなないそうです。当然病院ではないために、新型コロナウィルス:Covid19のような緊急時の対策やマニュアルはもとより完備されておらず、一挙にクラスター化する施設もまれではないといいます。

 

とうとうわたしの身近なところで犠牲者が出てしまいました。それはフィリピンのわたしの大事な大事な知人です。名前はChivaといいます。今回は、記憶の中のChivaについて綴りたい。この機会にフィリピンの医療状況について皆さんに是非知ってもらいたいと思いますが、それは別の機会に綴りたいと思います。わたしの長女も現在マニラの大学で医学を学んでいますので、全く人ごとではないのです。

 

マニラにあるマカティ市のとなりにBGC(Bonifacio Global City)というフィリピンで最も生活コストの高い新しい町があります。多くの外資系企業がここにオフィスを構えており、高層マンションもつぎつぎと建築されています。フィリピン発の日系モールである三越も建築中です。 

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レストランも多国籍で、日本料理、イタリア料理、ペルシャ料理、ベトナム料理、中華料理、韓国料理、タイ料理などなど、そしてわたしたち日本人が聞いても知っている名前のレストラン、丸亀製麺、サボテン、一風堂などたくさん出来ています。住人も多国籍で、乳母車を押し同時に子犬をつれて散歩する住人もめだち、オープンカフェやバーなどで会話を楽しむ外国人の姿はまるで代官山や六本木を想像させる光景です。それほど安全な街なんです。

 

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Googleは、この街に数棟の高層ビルを借りて数千名のワーカーを抱えています。アクセンチュアをはじめいくつかのBPO(Business Process Outsoursing)企業にプロジェクト単位で業務委託しているんです。1つのチームを除いては、コールセンターなどのよくあるBPOプロジェクトです。その1つのチームというのは、Googleの開発したアプリケーションをテストして、開発グループにその分析結果を報告し品質を向上させていくプロジェクトをです。

 

フィリピンだけではないかと思うのですが、このチームは多国籍で各国各言語にチームが細分化されています。その中でわたしは唯一の日本人でした。日本人のチームは東京とGoogle本社所在地のマウンテンビューに分かれており、総勢7名が週一回のWeb会議で分担を決めたり経験を交流したりしてすすめていました。その他、中国、香港、ベトナムサウジアラビア、などなど20名ほどのスタッフが各言語でのテストをしていたわけです。

 

この多国籍チームのマネージャーで現場を監督していたのが、Chivaという人物だったのです。彼の上司でフィリピンを統括していたのは、小さく可愛らしいJappyという女性で、彼女は僕を採用した人物でもあるんですが、各国のチームの統括責任者でもありました。なので、毎週各国が一堂に集まってWeb会議システムでコミュニケーションをとり、それを彼女が統括していたわけです。

 

オフィスは非常に厳しいセキュリティルールが有り、私物はロッカールームで全て(筆記用具すらも)管理し、オフィス内にはもちこめません。まあ、お菓子や飲み物は別ですが(😀)。食事やスナックそしてコーヒーやソフトドリンクは、全てフリーで各階のパントリーエリアに置かれていて自由にとってよいことになっていました。日本ではこのようなオフィスはまだ考えられないでしょうね。

 

当然、雇用契約も締結しますし、担当するポジションや仕事内容も定義され合意します。わたしがGoogle 以前に努めたWundermanというニューヨークベースのマーケティング企業では、雇用契約書だけで10ページを超えていました。当然、簡単にクビにもなります。つまり、日本でようやく取り入れられるようになった「ジョブ型雇用」というのが標準です。解雇される場合は、ボーナスなど様々なインセンティブの支払いをうけることがでできます。

 

在フィリピンの欧米の企業では優秀な社員を確保するために、福利厚生つまり保険制度やフリーミールが提供されていてフレックスにしている企業がほとんどです。フィリピン政府も日本と同様にPhilhealthという政府の健康保険制度はあるのですが、天引きも少ない代わりに病気になった場合の保証も非常に少ないのです。ですから、プライベートの保険会社と契約して高額の保証が得られるようにしているわけです。

 

Googleには、さまざまなデザインの多目的ルームやゲームルームもありました。わたしたちのオフィスのあったuptown towerは、モールの上に立てられていたので、食品や衣料品、ガジェットなどの買い物も楽でした。まあ、便利なところでした。レストランも充実しており、一風堂、大阪の有名な串カツ店、じゃぶじゃぶ食べ放題店までありました。

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わたしは家族がセブにすでに引っ越していたために、単身赴任でオフィスから徒歩20分ほどのところにマンションの一室を借りて、朝はGrabタクシーで行き、帰りは徒歩で買い物をしながら帰るという生活でした。朝7時頃に出社し、夕方5時頃に帰路につくというのが基本的なルーティンでした。フィリピンは、まだ週45時間労働が普通です。

 

さて、朝オフィスに到着するといつも一番乗りなのが、一番古参の社員でタイ出身のNuiという女性です。年齢は不詳ですが(😀)、アメリカの大学で学んだ経験もあり自分の意見をはっきりという女性です。彼女にはチームの仕事のイロハを教えてもらったりと大変お世話になったのですが、一等最初に仲良くなったオフィスメイトでした。いつも周りを気遣い、社員のお姉さん的存在でしたね。それに韓国チーム、ベトナムチーム、台湾チームが、早い時間に来ているのでみんなでカナダのコーヒー&ドーナッツショップTim Hortons(ティムホートンズ)へ朝食を買いに行き、オフィスそばのパントリーのテーブルでおしゃべりしながら30分ほど過ごすことが毎日の日課となっていました。なかよしグループですね (^-^*)。

 

朝食も終わり、さて戦闘開始と仕事をはじめる。しばらくすると、現場監督がやってくる。そう、それがChivaなのです。見た目は童顔のキングコングのような、いやトトロのような奴って感じ。なかよしグループよりも早く来ていることもあるし、遅く来ることもある神出鬼没な奴。まず誰かに声を掛けひとしきり笑いを起こして席に着く。これがChivaのルーティンです。

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彼のプライベートはよく知らないのですが、中国系のフィリピン人ですね。とにかく、とても親切でみんながしたっていました。しかも、子供のようでよくみんなにいじられてもいました。彼が立ち寄るチームとくにアラビックのチームからは、絶え間なく冗談と笑いが起こっていました。まあ、フィリピンのオフィスでは楽しんで仕事をするのが普通ですがね。

 

Chivaは、日本ではまず見られないタイプのリーダーだと言っていいでしょう。34年間米国、韓国、日本、フィリピンの企業で仕事ををしてきましたが、もう一度一緒に仕事をしてみたいと思える上司というのは2人しかいません。Chivaはその一人です。

 

明確なポリシーを持ち部下をリードする、いわゆるハードなタイプのリーダーは沢山見てきました。非常に優秀であることは間違いありません。その意味で非常に尊敬しています。どこが異なるのか?リーダーとは、部下の能力を無理なくMaximizeしOptimizeする、そしてチームが互いに協力して自分たちをMaximizeしOptimizeするように成型する、それがわたしは重要だと思っています。Chivaは、まさにそんなリーダーです。見かけは、冗談好きで子供のようなのですが。本当に希有なそんざいです。

 

わたしたちのチームは多国籍メンバーです。「ダイバーシティ」という言葉をご存じだろうか?「多様性」と訳されるが、非常に深い意味を持った言葉です。単に多国籍であることがダイバーシティではありません。性別、地位、生活スタイル、宗教、、、、様々な面の多様性。これを一つの目標に向けてマネージするのは大変な仕事です。想像できますよね。

 

一つの事象に対する反応や感情の持ち方は、それぞれ異なります。最終的には、一つの目標と計画に向けて、一つの軌道に乗せて歩めるように指揮する、まさにオーケストラの指揮者のようなもの、それがわたしにはリーダーだと思うのです。Chivaはまさにそれです。

 

わたしの記憶にあるChivaは、そういうリーダーであると同時に、本当にLovelyな存在でした。彼は、ポケモンゴーなどゲームが大好きで、ジブリの映画とくに「となりのトトロ」が大好き、2ℓ入りのペットボトルでミネラルウオーターを飲む、チョコレートが大好きな、オフィスを自宅のように思いつも夜遅くまで残っている、窓際にたっては何かを考えている、大柄で童顔の青年!チームにとっては、頼りになるHospitalityに富んだ、いつ何があってもわたしたちを微笑ませて仕事に戻してくれる、良きお兄ちゃんでした。わたしたちには、「はやくかえりなさい!」と気遣ってくれる。

 

フィリピンでは、社内でいろいろなイベントを行います。チームビルディングを名目にメンバーを交流させるために、ゲームパーティーやダンスパーティをよくやります。そんなイベントの中にあって、Chivaの存在は皆を和ませるんですね。ところが、普段の食事はいつも一人。勝手な想像ですが、きっと唯一の自分のChill Timeなのではなかったのでしょうか。

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そんなChivaが先日かくれてしまったんです。彼に症状が現れてから病院に搬送するために奔走したオフィスメイトによると、酸素を必要としていたのに提供されない、救急車は20,000ペソも請求した、病院にベッドをとれない、悔しいとしかいいようのない中で、息を引き取ったというのです。

 

本当に悔しいし悲しい!全てのメンバーに、愛され慕われたお兄ちゃん!みんなが、わたしと同じ思いだと思います。昨日日本時間の午後4時、わたしのように今はチームにいないメンバーも含め三十数名が、Google Meetで集まってChivaの思い出を語り合いました。本当に悔しいし悲しい!同時にパンデミックというものと医療というものを再考されられました。

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Chiva!いつかまたパラダイスで会えるよ!信じてます。

 

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一冊の本とCoffee、そして音楽

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京都 喫茶 「築地」

幼稚園の頃、版画の自画像で入選し、京都市の展示会に出展していただいたことがある。その時に京都ノートルダム小学校の先生にえらく褒めてもらって、「ノートルダムへきっと入学しなさいよ」とさそわれたことがありました。父親は、「勉強するのに高いお金を払わなくとも、自分で努力すればいいんだ!」と相手にしてくれなかったのを覚えている。

 

絵を描くことが好きで、当時のテレビ漫画にでてくる主人公や主人公が乗っていた未来の乗り物なんかをよく描いていました。家が小さかったので、自転車やバイクを置くためのスペースに半畳ほどの板間を作ってもらって、そこにお下がりの机と椅子を置いて絵を描いたり勉強したりしていました。以来、小さく隔絶された空間で、本を読んだり絵を描いたりする習慣が自然と身についたのです。

 

小学校の5年生頃でしたか、いきなり父が「家を造るぞ!」と青写真に描かれた図面をみせてくれました。当時の家族構成は、父・母・弟2人・父方のお婆さん・父方の叔父2人と、私を入れて合計8人の大所帯でした。100坪近い土地に2世帯住宅を注文建築で建てたんです。もちろん広くなって喜ぶことも多かったし、念願のシェパードも飼えることになって嬉しかったのは間違いないですね。でも、残念なことが一つ、小さく隔絶された空間で一人で何かに打ち込む場所を失ってしまったのです。

 

広い応接間ができ、そこに父はチーク材で造られたピアノを買い入れました。さてどうするつもりかと思っていたら、「おまえピアノやれ!」といわれ、「はっ?」でした。小学校3年生から剣道を習い始めていて、それも父の命令みたいなものでしたし、しかも剣道とピアノってちぐはぐな気がして気が進みませんでした。まあでも、ピアノ買っちゃったわけだし、仕方なく始めました。

 

美術と同様音楽も嫌いではなかったので、自宅まで来てくれる先生について練習を始めたんです。ついでに父の高価なステレオでクラッシック音楽を聴くようになりました。でかいスピーカーでしたのでド迫力のサウンドが出ました。それでドボルザークの「新世界」なんかをかけるとすごい迫力でした。

 

2年間ピアノ習って「ソナチネ」を始めた頃、なぜかクラシック音楽から別のジャンルの音楽に触れてみたいと思うようになり、ピアノを止めギターを勉強するようになりました。剣道の先輩の家で聞かせてもらった、S&G(サイモンとガーファンクル)の「スカボロフェアー」や「明日に架ける橋」が強烈な印象だったこともあって、S&Gをコピーしようと一生懸命練習したものです。ポール・サイモンのギターテクニックはすごい、はい。

 

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謡曲を除けば、かぐや姫井上陽水などのフォークソング、ツエッペリンやディープパープルなどのハードロック、ピンクフロイドやE.L.P.などのプログレッシブがはやっていて、学生がバンドを造って文化祭にでたりしていました。わたしもそのひとりでした。

 

高校3年のときでした。京都産業大学から少し登っていった鞍馬山の入り口付近に、二軒茶屋というところがあり、父がそこに新築の家を買ったんです。のどかな場所で、家の裏には叡山電鉄が走っており、門の上にちょこんと猿が座っているなんてこともある場所でした。お婆さんと叔父さん、そしてわたしの3人がそこへ引っ越したんです。休みの日には、バイクで鞍馬の方へ出かけ、川床でぼたん鍋を食べるのが有名な貴船川が流れており、その川辺にすわって小説を読むのが習慣になり、家では一人部屋になったため思索にふけることも多くなり、詩などを書いたりすることもありました。

 

大学に入ると突然社会の矛盾に疑問を持つようになり、マルクスレーニンそしてチェ・ゲバラに影響を受け学生運動に飛び込みました。ウッディ・ガスリーやピート・シーガーなどのプロテストソングなんかを聴いていろいろ考えに耽ったりすることも多くなりました。

 

京都立命館大学高野悦子さんの手記「二十歳の原点」をご存知でしょうか?「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という一説。自殺をしてしまった高野さんが、1969年1月2日(大学2年)から同年6月22日(大学3年)までの、立命館大学での学生生活を中心に書いた日記。理想の自己像と現実の自分の姿とのギャップ、青年期特有の悩みや、生と死の間で揺れ動く心、鋭い感性によって書かれた自作のなどが綴られているwikipediaより)。

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この本に「シアンクレール」という喫茶店が出てくる。「思案に暮れる」をフランス語風にカタカナにしたのが店の名前の由来だそうです。いわゆるジャズ喫茶で、今はもうないのですが。わたしは、ここを訪れてはじめてジャズという音楽に興味を持ちました。

 

ディジー・ガレスピー、チャーリ・パーカー、チック・コリアセロニアス・モンクビル・エヴァンスなどなど、下宿に40万円もつぎ込んでかったオーディオでヘッドフォンを架けて何度も聴きました。でも、ジャズ喫茶にはもっと素晴らしいオーディオがあります。ですから、たまに出かけては素晴らしい音色を楽しんだものです。

 

京都にはブルーノートという老舗も有り、ジャズ喫茶を訪れては一杯のコーヒーで何曲も何曲も聴いていたのでした。わたしは、ジャズを聴くとなぜかいろいろな思索をする癖があるのか、自分の世界を創造してしまうのですよね。

 

チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return to Forever)』を聴いたときはショックでした。「なんなんだこれは?」と音楽観が揺さぶられたのを覚えています。わたしの脳内に、見たこともない色合いの世界へ手を引っ張って連れて行かれ最後は美しい未来への扉が開く、そんなイメージを奏でるのです。

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たしかに、クラシックなジャズではないですよね。アコースティックなピアノではなく、電子キーボードを使っていることやフルートの使い方も影響しているのだろうなあ。

 

京都には、クラッシックを聴かせてくれる名曲喫茶も、フランソワーズ、築地、ミューズなど四条河原町木屋町界隈には独特の空間があり、よく通ったものです。そして、関西ブルースのレジェンド憂歌団が活躍した日本最古のライブハウスといわれる「拾得[じっとく]」(上京区)、「磔磔[たくたく]」(下京区)、そしてアンゴラのメッカ京大西部講堂なんかもある。

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ジャズやブルースにフュージョンを聴き始めた頃から、わたしの聴く音楽のジャンルは一挙に広がった。ドック・ワトソンやビルモンローらのブルーグラスロシア革命を追った「世界を揺るがした10日間」の著者ジョン・リードを描いた映画「レッズ」を見て影響を受けたラグタイムボブ・マーリーレゲー、アフリカの部族音楽などなど。

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一方、クラッシックもどんどん深くなっていった。というのも大学時代の恋人は、京都でも有名な高校オーケストラのチェロ奏者だったために、いろいろなレコードを教えてもらいました。「ブラームス交響曲の四番、これを聴くならカルロス・クライバー指揮に限る」と彼女は言い張るのです。

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「えっ?何が違うの?」と訊くと、「音と音の切れ目に注目してみて」というのです。何度か聴いて、他と比べてみて確かに違いを感じたんです。つまり、切れ目が切れているのではなくとてつもない深みに落ち込み、次の音が始まるまでにスーッとの上ってくる感じがはっきりとすのですよ。いや、驚きました。そうやって聴くことが出来れば、「この曲はこの指揮者で、このオケ」って好みが決まるでしょ。いやー鍛えられました。それ以来、クラッシックも沢山聴きましたよ。

 

こうして、ときどきのシチュエーションや感情のありかによって、聴くジャンルや曲が決まっていくようになりました。素晴らしいスピーカーが置かれたジャズ喫茶や名曲喫茶で音楽を聴く習慣はなくなりません。地方へ出かけても、かならず探し当てて足を運んだものです。

 

しかし、思索が伴うときは決まってジャズ、ブルース、クラッシックを聴く。なぜかなあ?どうも脳裏に深い世界を創造してくれるのは、それらのジャンルの曲だからだろうか?自分でもはっきりとした理由は見当たりません。そしておまけに必ずコーヒーをすする。しかもミルク入りのコーヒー。名曲喫茶の築地では、ウィンナーコーヒーという泡立てた生クリームが浮かぶコーヒーが有名で、必ずそれを注文する。

 

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年齢と時代が音楽や曲の好みを変えてきた。しかし、とうとうこの年齢になって、新たなものを受け入れられなくなってしまった気がする。過去の部屋に閉じこもったままだ。でも、一冊の本と一杯のコーヒー、そしてジャズ、ブルース、クラッシック。「小さく隔絶された空間で何かに打ち込む場所」は、物理的な世界から脳裏に創造された世界へと変わった。

 

でわでわ

今後のコンピューティングを考えてみるー今は昔ときたもんだ!(1)

 

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「TOKYO2020」オリンピックも閉幕し、お盆の季節となりました。パンデミックといえども政府の期待に反して人出は増えそうな予感です。仕方がないですね、政府の国民を小馬鹿にしたような戯言には、付き合ってられないということでしょうか?

 

2004年に、わたしは「シンクライアント=ディスクエレスPC」端末を提供する企業に役員として迎え入れられました。当時は韓国製の製品から台湾製へと製品ラインを変えた時期でした。製造工場はAppleの製品なんかも作っている深圳にあるフォックスコンだったのです。

 

わたしの基本となる任務は、市場計画でした。設立してから2年以上になるのですが、わたしが入社した時はほとんど顧客はありませんでした。強豪企業は、NEC松下電工インフォメーションシステムズ、そしてワイズなどが知られていましたが、まだ浸透しているとは言い難い状況でした。

 

2005年になってマイクロソフトWindowsXPエンベデッド版OSを出すというアナウンスがありました。それまでWindwsCEを使うか独自OSを使うかの選択だったのですが、ビジネスでスタンダードとして使われているWIndowsXPと同じインタフェースが提供されるというニュースに興奮したのを覚えています。さらに、政府は度重なる情報漏洩の被害に対して「情報保護法」を制定し、顧客情報の漏洩を起こした企業には厳罰で臨むということが発表されました。

 

これぞ天の思し召し、と感じビビッときました。この2つがシンクライアント市場のドライバーとなると考えたわけです。昔取った杵柄で、「よし産業コンファレンスを設定し花火をあげて市場に認知してもらおう」と決めました。各ベンダーに「競争は後に置いておいて、一緒に市場を作りませんか」と声をかけ、わたしは「シンクライアント産業コンファレンス」の企画づくりに専念しました。

 

「昔取った杵柄」とは、わたしがガートナーのサービスを情報技術研究所(現在のITR株式会社)で販売を開始し、日本ガートナーグループの設立に参画した頃、ERPという概念を初めて日本に紹介したときも、同じように「ERP産業コンファレンス」を企画し、市場に浸透させたことがあったからなんです。この企画以降、雑誌紙では「統合業務パッケージ」という名称が消え「ERP」という名称に見事に変わり、多くの解説記事はわたしが執筆することになったのです。

 

まずコンファレンスの会場や講師のコーディネーションを、コンピュータ系メディアの優IDGにお願いしました。講演の講師は、全てわたしがテーマとともに決めました。しかし当時シンクライアントについて日本で発表された文献やコラムはほとんどなかったために非常に苦労しました。そんなとき、書店であるセキュリティに関する文献を見つけたんです。そこの最終章には、きちんと「シンクライアントのセキュリティ上の有効性」について述べられていました。「この著者だ!」とその発見に心が躍りました。著者は当時総務省のCIO補佐官をされていたIBM出身のOさんでした。

 

早速、アポを取ってこのコンファレンスのわたしの思いとなぜOさんに依頼したいのかを熱弁し、了承していただきました。そしてデータクエスト時代の先輩で日本ガートナーを立ち上げた後に合弁の結果日本が^ートナーグループに来られたPC市場を担当のSアナリストに公園の依頼をしました。IDGのメディアと連携したこともあって、この企画はお披露目としてはまずまず成功だったと思います。この後、日経産業新聞をはじめ多くの IT系メディアの依頼で「シンクライアント」について執筆もさせていただきました。さて、こうやって引き合いも増え、続々とHPなどの大手メーカーも市場に参入してくることにったわけです。

 

これが、日本市場におけるシンクライアントを活用したサーバーベース・コンピューティングの始まりだったと言って良いでしょう。当時まだクラウドにあるサーバーを使うことはメジャーではありませんでしたので、今で言うオンプレミスのサーバーとの接続が主だったわけです。ネットワークがまだ貧弱だったというのが大きな要因です。

 

サーバーベース・コンピューティングのメリットを当時は次のように説明していました。それは、セキュリティの向上とTCO(総合保有コスト)の低減です。

 

情報漏洩の多くは、社内で使っているラップトップを社外で使うために持ち帰った際に、盗難や紛失をしてハードディスクから抜き取られたというのが原因のトップでした。それを回避するには、暗号化するとかシュレッダーにかけて廃棄するとかという方法がありますが、ハードディスクを無くしてしまいPCにデータが一切記憶されていない状態にすることが最も確実な方法なんですよ。

 

                    f:id:naophone008:20210810173419j:plain出典:JNSA

ハードディスクをPCから無くしてしまうと、実は他のメリットも得られるのです。デスクトップPCの故障の70%の原因は、動く部品にあることを知っていますか?それは、ハードディスクと冷却ファンなんです。現在はSSDがあるのでM1搭載のMacbook Airは音もせず消費電力も低いですよね、なので冷却ファンはついていません。つまり、ハードディスクを取り除くと、セキュリティが向上するだけではなく、故障率が減る、熱が出ないので冷却ファンもいらない、低消費電力化する、筐体は小さくできる、というわけです。

 

一般的なPCの消費電力は100~150Wですが、シンクライアントのそれは10W前後とPCの10%以下なんです。これだけをみてもTCO(総合保有コスト)が下がるのは理解できますよね。しかも、ソーラーパネルで動かしたかったんです。というのもフィリピンの公立学校では電気代が払えないためにPCがあるのに使われていない学校もあったからなんですよ。一般のPCだとかなり発熱するので、エアコンも必要だという問題があったからです。

 

しかし、TCOのもっと大きな部分を占めるのは、人の手のかかる作業、つまりセットアップやアップグレード、そしてメンテナンスです。

 

シンクライアントには、大きく分けて2つのタイプがあります。OSの所在地によって分かれます。ハードディスクはないわけですから、クライアント側のROMにOSを組み込むタイプと、サーバー側に仮想OSを稼働させて使うタイプです。全アプリケーションはサーバー側にあります。となると、OSを含むアプリケーションの設定やアップデートはサーバー側だけの作業となり、ユーザーの席にいっておこなう作業はハードウェアのトラブルを除いてはなくなることになり、運用担当者の負担が大幅に減ります。しかも、70%の故障の原因が既に取り除かれているわけですから、ほぼメンテナンスフリーといえます。おそらくハードウェアのリプレース時以外は、運用担当者はサーバーに集中していればすむということになります。

 

皆さんは、クレジットカードやキャッシュカードが登場した時を覚えていますか?キャッシュレスの始まりですね。現在は、紙の通帳すら必要なくなっています。ところが、年配の方の中にはキャッシュレスに不安を感じ、いまだに家庭内に幾らかの貯金を隠している方がいるでしょう?実は、自分のデータを手元に置かなくなると不安になるのはそれと同じことなんですよ。ですから、なかなかサーバーベース・コンピューティングには、馴染めないという状況がありました。

 

この時のわたしの実績を見て、フィリピンのアヤラグループ、セブアノルーリエ、ロペスグループなどのファンドを運用するNarra Venture Capitalのパコ・サンデーハス氏から、フィリピンでシンクライアントビジネスを立ち上げてほしいという依頼がありビジネス計画を策定することになりました。その依頼は、実はシリコンバレーのTallwood Venture Capitalのファウンダーであるダド氏(Dado Banatao Wikipedia参照)の、未来はサーバーベース・コンピューティングが主流になると確信されていて、彼の願いでもあったらしいのです。

 

ダド氏は、もっとも著名なフィリピン出身の起業家で、半導体の世界では特に知られた方です。ですから、彼はシンクライアント専用の半導体チップから造っても良いくらいに考えていたようでした。約半年をかけてビジネスプランを完成させ、投資が決まりXepto Computng Inc.を立ち上げました。わたしがXeptoと名付けたのは、”小さい”(XeptoはNanoより小さい単位)ことを強調したかったことと”X”で始まる言葉を求めたためなんです。

 

              f:id:naophone008:20210810173658j:plain出典:NEC

ところがやはり市場を獲得するのは非常に難しかったんです。最大の問題は、レガシーなシステムとネットワークの性能の問題でした。特にインテル軍団とマイクロソフトのファットクライアント推進の力が非常に強かったのです。特にCADやAdobeのアプリケーションは、サーバー側にかなりパワーが要求され、ネットークキャパシティーがないと稼働しなかったのです。

 

その頃から既に15年が経過した現在はどうでしょうか?5Gが使えるようになり、わたしの自宅でさえ200Mbpsのインターネットが低価格で使えるようになっています。当時のサーバーベース・コンピューティングを阻む問題はほぼなくなっています。しかも、クラウドコンピューティングが普通になり、企業の利活用する環境としてはトレンドとなっています。

 

しかもです。米マイクロソフトは、先月7月14日(現地時間、日本時間7月15日)から開催しているオンライン・カンファレンス「Microsoft Inspire 2021」(マイクロソフト・インスパイア)でクラウドPCサービス「Windows 365」(ウインドウズ・スリーシックスティーファイブ)を発表しました。8月から提供を開始する計画です。

 

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ファットクライアントで稼いでいたマイクロソフトでさえ、遂にクラウド側へOSを持ってきました。これは面白い!なんかワクワクする新しい兆しを感じるのはわたしだけでしょうか?シンクライアントとサーバーベース・コンピューティングを推進してきたわたしとしては、「やっとここまできたか」って感じです。ダド氏の読みが現実のものとなってきました。ここから、じゃあ今後どんなことになっていきそうか、わたしなりに妄想してみたいと思いますので、次回を楽しみにしてください。

 

でわでわ

カリカチャー生成アプリMakeMe:市場投入への道 (2)

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オリンピックが始まりました。柔道や体操そして卓球など多彩な分野で日本選手がメダルを獲得しています。「政治の失策」でオリンピックをめぐって「グダグダ」問題が起こりましたが、それは政治関係者やオリンピック委員会などの方々に徹底的に総括してもらうとして、選手の方々にはエールを送りたいと思います。

 

さて、開発に10ヶ月をかけてカリカチャー生成アプリMakeMeの携帯電話でのサービスを可能にするサーバー・アプリケーションとキオスク版の両方が出来上がってきました。さて、ここから市場開拓が始まります。

 

まず、市場ターゲットを決定しなければなりません。まずどの程度反響があるかを確かめるために、キオスク版を使って作成されたカリカチャー似顔絵をプリクラのようにプリントアウトするようにして外国人も含めて人が集まるところに設置し試してみることにしました。

 

アクセスしたのは、ドンキ・ホーテでした。マーケティング担当のOさんがトンキ・ホーテに知り合いがいたのでそのルートで、建物の一角でキオスク端末を置いて、1週間限定でサービスをさせてもらいました。

 

どんな人が、MakeMeを楽しんだと思いますか?日本人と外国人の反応に違いはあったと思いますか?

 

実際はこうでした。最もこのサービスを楽しんだのは、子連れのお母さんでした。お母さんは、自分の似顔絵を作るのではなく、半分無理やりに子供に「やってみないさいよ」ってやらせてたんです。楽しんでいた最大のポイントは、こうでした。子供の髪の毛を絶対に実際にはしない髪型と色を、取っ替え引っ替えして笑い転げて遊んでいました。「へえ〜そうなんだ。韓国とは違うねえ」と驚きました。

 

外国人と日本人の反応は?まず日本人の反応ですが、ほぼ全ての方が「似てる?似てる?」と似てるかどうかに非常に拘っておられました。それに対して外国人の反応は、「おっ!こんな顔になるんだ、面白い!」と言って素直に喜んでおられたわけです。この時点で、「サービス開始するとちょっと難しい反応が帰ってくのでは?」と不安を感じたのを覚えています。

 

この時点で、適用分野の絞り込みに集中することになるのです。ちょうど知人から、カメラ付き携帯電話が発売され始めているので、携帯電話の販売促進で使えないかとの話も来ていました。

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出典;livedoor

1)エンターテインメント

  ー カメラ付き携帯電話の販促

  ー プリクラのサブシステム

  ー ゲーム用キャラクター作成機

  ー 顔占い

  ー 絵本のカスタマイズサービス

  ー お土産店で商品へのアバターの印刷

2)ビジネス分野

  ー チラシなどで店長や店員などのキャラクター作り

  ー 生産者を紹介するPOP作成

  ー サイト内で会員様のアバターとして

 

これらの分野をプライオリティにして営業・マーケティングを開始しました。もちろん、営業資料も各分野での利活用のアイデアを盛り込んで作成もしました。

 

さてそうこうしているうちに、カメラ付き携帯の販促の話が進展し、数度にわたって大手広告代理店(A社)との打ち合わせを経て、テストを開始しようということになりました。テスト環境の打ち合わせで早速問題発生です。

 

当時、携帯電話コンテンツ・サービスのデータセンターでは、LINUXのみが稼働していました。MakeMeサーバはWindowsサーバとExchangeサーバを使っているために、サポート可能なエンジニアが非常に少ないという問題にぶち当たりました。それと、携帯電話側から写真が送信されて、結果のカリカチャー似顔絵をリターンするまでに3秒以内にしてほしいというリクエストにこたなければなりませんでした。

 

インストールなどはリモートでエンジニアにトレーニングしました。レスポンスの方は、Exchangeサーバが正確に動いていれば2秒以内で結果を返します。さて、最後は、耐久テストです。早朝にテストを開始して、夜中にダウンしました。このテストは1週間近くかかったのですが、順番に徹夜し何かあれば韓国側に連絡して解決に当たるとい日々が続きました。いや〜大変でした。そしてようやくA社から合格の認定が出て、本番のサービスインを迎えることになりました。

 

ワクワクして、本番を迎えどれくらいの人が使っていただけるのか?評判はどうか?をみんなで毎日監視していました。するとA社から目立つクレームがあるという連絡が入りました。それは、「私の顔はこんなに丸くない!」という女性からのクレームだったのです。

 

そのクレームの主の写真と作成されたカリカチャー似顔絵をそれぞれじっくり見比べてみました。ところがです、「どうみても全く同じだよね!」というのがわたし達の見解でした。そういえばと思い出した論文がありました。それは、「人間は正しく自分の顔を認識していない」という研究論文だったのです。特許申請する際に勉強した中にあったのです。つまり、少し自分が理想とするものに近い顔立ちで認識しているというものでした。

 

結局、わたしは5%顎部分の輪郭を細くしてアウトプットするようにプログラムの変更を韓国側に依頼することにしました。まあ、その必要性を説明するのは簡単ではありませんでした。こうしたことで、クレームは無くなったんですよね。げんきんなものです。

 

結果、いろいろ驚くことが発見されました。なんだと思われますか?その最大の一つがこれです。

 

最大の利用者は、40歳代の男性だった」ということです。

 

この事実を社内でいろいろ分析してみたのですが、一番あり得そうな答えはこうでした。男性が社内やクラブの女性との話題づくりで「こんなのあるんだけれどもどうだいやってみる?」「これ俺なんだよ、若いだろう!」なんて楽しんでいるのでは!ということで落ち着きました。

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そうなんです、この手のシステムでコンピュータでは写真の分析から年齢を認識するのは無理だということと、鼻などの顔のパーツや輪郭に似たものが認識されるとカリカチャー似顔絵を作成してしまうという事実です。便器に顔のようなものを描いてサーバに送信している方もいました。

 

さて、いくつかのメディアで取り上げてもらえるようになって問い合わせも増えてきました。ベネッセに営業に行った時です。絵本や学習本で似顔絵を使うことの意義が、韓国の教育雑誌に掲載されていたので、どうだろうかと思って訪問したんです。残念ながら採用には至りませんでしたが、非常に興味深いことを聞かせてもらいました。

 

それは、「家族の方がテキストブックに登場して、教えると子供は数倍早く覚えるんですよ!」というもので、MakeMeで生成した家族の似顔絵を活用すると効果が出るということです。これは、韓国の教育科学者の論文とも一致する内容でした。本当にやってみる価値はあると思いましたが、チャンスがなかったのです(m(_ _)m)。

 

一方、ゲーム用のキャラクター生成については、セガやその他いくつかのゲームソフト開発会社とやりとりしました。セガに関してはプリクラ機を製造されてもいたので同時にプリクラのサブシステムの商談をしておりました。しかし、やはりなかなか首を縦に振ってもらえなかったわけです。確かにゲームユーザーは自分が主人公になりたい願望はあるそうなのですが、技術的に3Dで精度の良いキャラクターでないと使えないというのが結論でした。今の、3Dアバターみたいなもんですね。でもまだ仕上がりの精度は問題でしょうけど。

 

ある日オフィスに出社すると「マイクロソフトの中国から電話がありましたよ」とメッセージをもらい、早速電話してみました。そうすると「MakeMeは面白くて非常に興味がある」とのことでした。マイクロソフトは北京に研究所を置いていたんだです当時。「どういうご要望ですか?」と聞きますと一言「売ってくれ!」と言われました。つまり、Outlookのサブシステムとして使いたいということらしく、「アバター付きメール」みたいなものでしょうか、詳細は分かりません。

 

わたしの中では、即座に「No!」という答えがありました。「そんな狭い世界でMakeMeの使い道が限定されてしうのは嫌だ、もっと可能性はいっぱいあるんだ!」というのがわたしの思いでした。まあ、投資家さん達には一つのExitだったかもしれませんが(m(_ _)m)。

 

顔占いの分野では面白い提案ができていました。顔占いのサービスサイトを見ていますと、自分の判断で、似た形の目、鼻、耳、眉毛、ほくろの位置などを選べば、占いの結果を出力するという主導のものばかりでした。MakeMeの場合は、データベースにある顔の顔のパーツを選び出してくるので、それぞれに占いを紐づけておけば自動的にコンピュータが分析をして占いの意味を出力するのでもっと占いとしてのリアリティがあるわけです。

 

セイコーが顔占いサイトを提供していて、そこに提案したところ採用してもらうことができました。さらに、OZmagagineのオンラインサイトで一ひねりした顔占いをやってみようということで出てきたアイデアが、「男女で遊ぶ顔相性恋占い」でした。このアイデアを聞いた時は「これは面白い!」と本当に思いました。

 

サービスが開始されて、多くのアクセスがあったらしくとても喜んでもらいました。アイデア次第でこのユニークなカリカチャー似顔絵生成システムを使えばこんなに面白いサービスになるんだと改めて感心した次第です。

 

さあ、次がわたしのCubicmoreでの最後の仕事になった案件です。ヘラクレスに上場していたあるゲーム開発会社(N社)からきた案件です。彼らは香港と中国に進出していて苦労している最中でした。案件は、第九城市(?)だったか上海の大手オンラインゲームサイトを運営する会社です。当時は、北京のセイダイか上海の第九城市(?)かと言われていた時代です。セイダイはその後NASDAQ市場に上場を果たしましたね。

 

N社は、これが中国初案件になると鼻息が荒かったのを覚えています。提案は、第九城市のオンラインゲームのキャラクターが着ているボディにMakeMeで作ったユーザーの似顔をドッキングさせて印刷したりできるようにするサービスです。やはりユーザーはゲームの主人公になりたがるんですね。

 

これは、Webサイトでのサービスだったために結構なカスタマイズが必要になりましたが、無事サービスインしました。

 

このようにして、MakeMeを通じて初めてゲームなどのエンターテインメントやマーケティング・コンテンツというものを学びました。特に、似顔絵が持つユニークなインパクトを学ことができました。このよなブログの書き手さんも似顔絵やアバターをよく使いますよね。色々な意味があるのでしょうが、少なくとも見た人に与えるマイルドな印象と匿名性が同居していますよね。

 

最新の顔認証技術を使えばもっと活用場面は広がります。機会があればもう一度チャレンジしてみたいと思います。そんな面白いプロジェクトでした。

 

 

 

 

 

カリカチャー生成アプリMakeMe:市場投入への道 (1)

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MakeMe

 韓国でB2Cのオンライデパートが多くのアクセスを獲得していた頃(1990年台後半)、同時にそのサイトで使えるアバターが人気を得ていました。これが、Yahooなどでも自分の好みのアバターを福笑い形式で、顔などのパーツや髪の毛そして服を着たボディの中から選んで作成しサイト内で使えるサービスが出始めました。現在はLINEのサービスでもありますよね。

 

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LINEアバター

アバターを楽しむのは、韓国では中学生や高校生が年齢層としては中心でした。あるとき韓国の最大手キャリアを有するSKグループ(日本でいうところのDocomoにあたります)から、わたしに連絡が入り、「面白いソフトウェアがあるんだけれど話に来ませんか?」というので、とりあえずみてみることにしました。

 

SKグループは、わたしがガートナーの「エンタープライズ・アプリケーション戦略」担当のアナリストをしていたときに、韓国情報産業連合会の李ヨンテ会長(三宝コンピュータ会長、当時Trigemという低価格PCの火付け役でSOTECの筆頭株)の招待で、ソウルで講演をさせていただき、SAPを導入中のサムソンからプロジェクトで困っているので助けてくれと言われて訪問した時にわたしを知ったそうです。

 

SKグループとの会議で見た時のものは、2Dと3Dの両バージョンでした。顔写真からそれを分析しアバターを作るという以外、詳しいことはSKグループも理解していなかったようです。当時非常に珍しいソフトウェアだったので、韓国まで行って詳細を確認したいと思いました。

 

このソフトウェアのコンセプトは、パスポートタイプの正面写真を入力すると、輪郭と顔のパーツ(鼻、目、口)を分析し、データベース化された数百の顔パーツから近似値に相当するもの選びだし配置するという、福笑い形式とは違った「似顔絵」的なキャクターを生成してくれというものです。気に入らない顔のパーツは後から変更が効くし、タトゥーやメガネをつけたり、髪の毛の形や色も変えられるんです。そして、正確には「似顔絵」というより「カリカチャー」つまり特徴を若干誇張する技法を使っています。

 

これは、さまざまな楽しみ方があると確信し、なんとかしてビジネスにしたいと思いました。しかし、開発者は数百万の手付けと引き換えに、使用権を渡すというのではたと困りました。どうやって数百万を捻出するかです。

 

知り合いに相談をしました、そしてその中で「データイースト」というアーケードゲーム一世風靡した会社の名が上がりました。早速アポをとってもらって、プレゼンに行ったのです。そして再度ミーティングを持ち、別の関係者にも見せたいというので再度伺うことになりました。

 

2度目の会合では、投資家さんたちが参画していました。後でわかったのですが、「データイースト」は、破産状態で傘下にあった携帯のバッテリーの金属ケースを加工する会社が目当てで上場したばかりの「フォトニクス」という半導体検査装置の製造会社の柄澤社長とM&A会社が事実上管理をしていたのです。柄澤社長の目に止まったようで、ベンチャーを作ってそこでこのソフトウェアを使ったビジネスをしようと認めていただき、わたしは事業部長としてリードすることが決まりました、

 

まずは、ソフトウェアの確認と提携の交渉を韓国に行ってやりましょうということになり、私と社長で飛びました。ソウルのSKグループのオフィスで先方(名前を忘れてしまいましたm(._.)m)とSKグループとの間で、まずソフトウェアのプレゼンを拝聴し質疑応答をしました。わたしは、改良は必要だけれども日本市場でのニーズはあると確信しました。

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韓国SKグループ

それで、手付金を払う約束と手付金確認後1ヶ月以内に版権を引き渡すことで合意をし、日本に戻ってきたのです。ところが、着手金支払い後待てども版権を送ってこない。わたしは業を煮やして、紹介者のSKグループにクレームを出しました。

 

そうしたら、「彼らはすでに版権を他社に販売してしまっていた」と報告が入りました。わたしは顔面蒼白になりました。詐欺だったわけです。でも。天下のSKなら事前に調べておくべきじゃあないでしょうか?さんざん文句を言いました。そうしてやく半月して、「現在の版権所有企業が見つかりましたので、韓国に来てください」というので、再び飛ぶことになりました。

 

前回同様にSKグループのオフィスで会うことになりました。部屋には、SKの連中と金ヨンサム社長(ポド株式会社)が着席していました。金社長は、非常に大人しく恥ずかしがり屋に見えました。彼はこう提案してきました。「あなた方が支払ったお金は、私がいただいたことにしますので、ぜひ日本で展開しませんか?」というもので、大変驚かされました。ホッと胸を撫で下ろし、「やりましょう!」と言って握手を交わしました。

 

されに、技術の詳細を確認しました。「まだ満足いくところまで写真を分析できていない。顎のラインを取るのがものすごく難しい数式の塊で、それを理解できるのは韓国でもCYOだけしかいない」ということでした。「それは、調整していきましょう」ということで合意をして日本へ戻りました。

 

韓国のモールでは、このサービスを使ってTシャツやマグカップなどに自分のアバターと選んだ背景を印刷するという写真館のようなところで人気をはくしていました。「ちょっと待てよ?日本人って自分の似顔絵や写真をお金はらってグッズに印刷するかなあ?」答えは、ノーです。これは、適用サービスを考えないとダメだなって思いました。

 

ちょうどその頃、J-Phoneのカメラ付き携帯電話が市場投入されるということが囁かれていました。わたしは、直感で「これだ!」って思いました。このソフトウェアは、カメラが必須です。最初の韓国版はPCのWebでのサービスとして作られていました。しかし、携帯電話でのインターネットアクセスは鰻登りに伸びていくと確信していましたので、急遽携帯電話版を開発することに決めました。

 

わたしは、社長に掛け合ってCubicmoreという会社を立ち上げ、エンジニアとセールス・マーケティング、そして韓国とのコミュニケーションを取るために、日本語と韓国語を使える人材を採用させてくださいとお願いし、了承を得ました。

 

たまたま、知り合いの社長が時々連れて行ってくれる東京赤坂にある韓国クラブの「みんちゃん」と呼んでいた、いつもわたしのテーブルに座ってくれる女の子のことを思い出しました。彼女は、非常に綺麗な女の子でしたが、雰囲気がどうもクラブには不似合いな感じがしていたので、思い切って誘ってみることにしたんです。「みんちゃん、今度韓国企業とビジネスするんだけど、僕の秘書になる気ない?」って聞いてみたんです。

 

なんと、彼女はとっても喜んでくれてすぐにOKしてくれました。聞くと、「日本に来て最初はパチンコ屋で務めて日本語を勉強したけれども昼間の仕事になかなかつけなくて、仕方なく知り合いを頼ってクラブに来たんだけれど、昼間の仕事がしたかったんです」ということでした。彼女は第1号社員で、エンジニアの採用も一緒にやりました。彼女は、結構人の性格を見抜くのが上手だなあと感心しました。

 

そして、数人の面接の後、一人の青年に採用を決めたんです。Mくんという、気弱でガラス製の糸のような青年でしたが、技術力はあるなあと思いました。ただ、彼の精神状態には十分気を使ってやらないと、すぐ潰れてしうことはわかっていました。そして、以前からの知り合いで若干年配の女性でマーケティングのベテランのOさんに無理を言って入ってもらいました。

 

今後の製品の改良の件で、韓国ポド社の金社長とCTOと早速ミーティングを持ちました。彼らは、快く同意してくれました。ついでに、キオスク版、つまりゲームセンタなどにおいて遊ぶ(プリクラがモデル)PC単体アプリの開発も提案してくれました。

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さあ、開発が始まりました。サービスのアウトプットとして出来上がってくる「カリカチャー顔」の調整が最も大変な作業でした。韓国人の顔と日本人の顔はやはり微妙に違うんです。肌の色も、韓国人はピンク色が肌に入っているけれど、日本人は褐色が入っている。髪の毛の好みも違う。鼻から目や口までの距離、輪郭までの距離も違う。服の色の好みなんかもやっぱり違うんですねえ。いや〜〜〜大変でした。

 

中でも難しかったのは、輪郭の抽出でした。どうも顎のラインは、首の色との区別がつきにくいので抽出が難しかったようです。どうも色に関する分析と微分計算の塊だったんでしょうね。それと顔の作りは、民族ごとに特徴が違うので汎用性を持たすには長期の研究が必要でしょう。

 

わたしからのリクエストを、エンジニアのMくんとみんちゃんでポド社のエンジニアに伝えるのにも苦労しました。如何せんわたしのリクエストは絶対命令で、ポド側では「なぜそんなことが必要なのか理解できない」ということが多々あったのです。当然です、日本人のサービスに関する考え方と韓国側のそれとは明らかに違いますよね。外国人にその違いを説得するのは、本当に大変です。

 

これはかつて、米国のERPパッケージのR&Dで仕事をした時にすでに経験済みでした。例えば、財務会計ソフトウェアの入力画面ですが、日本の経理部の人たちは、おおよそテンキーとタブキーで仕事をしますが、入力画面にはアウトプットの帳票に近いイメージを求めます。それに入力フィールドに罫線が入ってないといやがるのです。ところが欧米では、その罫線を定義したり表示したりすることのパフォーマンスを考えて、タブで飛んだフィールドに入力項目名が上部に表示されていれば問題ないのです。罫線は必要ないわけですね。こんなところに、ローカライズの難しさがあるわけです。

 

さらに、当初韓国同様に中学や高校の女性とをターゲットにしていたので、操作性やインタフェースも何度も試行錯誤しました。こうやってついに10ヶ月後に最終版が完成したのです。

 

さあ、ここからがマーケティングのフェーズへと突入していくわけです。わたしは、このマーケティングでさまざまなことを学ぶことになります。今まで考えたこともないことですよ。楽しみにしてください。

 

でわでわ

 

 

 

 

条約締結に向けてーフィリピンで学んだ環境問題(2)

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美しいセブ等の海!ジンベイザメ、海亀、トロピカルフィッシュ、たくさんの生物が泳ぐ海!わたしは、約2年間このセブ等で過ごした。セブ等のある地域をビサヤ諸島とよび多くの島が散在している。フィリピン最大の観光スポットでもある。

 

この美しい島々と海が、水銀に汚染されたらと想像してみてほしい。これは大変だ、放って置けないと思われるでしょう。

 

セブ市には、「ITパーク」という地域があり、コールセンターに代表されるBPO企業やソフトウェア開発企業が多くある。マニラに比べると、比較的労働者が確保しやすいこともが理由でもある。また、美しい島であることを売りにした日本人留学生や家族を対象にした英会話スクールなども続々進出しています。

 

フィリピン第二の都市であるセブ市は、ゴミ問題をはじめさまざまな環境問題を抱えています。当時(2014年)セブ市の市会議員を務められていて環境問題の第一人者であったNida C. Cabrera女史が先頭になって、北九州市や横浜市と共同プロジェクトを実施されていた。

 

マニラ圏で蛍光灯収集プロジェクトをスタートさせたのを機に、セブ市からの要望でわれわれが設置した破砕機を導入し、同様に野村興産のイトムカにある処理プラントで処理したいという要望が来ました。その予算は、UNIDO(国際連合工業開発機関)が提供するということになりました。

 

早速、Cabrera議員を野村興産とともに表敬訪問しました。そしてわたしたちのプロジェクトの概要をプレゼンさせてもらい、協力を仰ぎました。数回にわたって、PCO(Polution Control office 企業の環境担当責任者)を中心に、セミナーを開催し野村興産のイトムカプラントに招待し、理解してもらうという趣旨でした。

 

セブ市には、イナヤワンというゴミ山があってここに産廃業社も軒を連ねている。その中にCebu Common Treatment Facility Incorporated (CCTFI 社)というセブ市のCabrera女史と連携して産廃業を営む企業があります。ここが我々のカウンターパートとして、破砕機を設置し、蛍光灯を回収することになったわけです。

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セブ島には、太陽誘電常石造船、ミツミなど、日本を代表する企業もあり、空港側にある経済特区にも80社以上の日系企業があります。これらの企業をターゲットとして、セブ日本商工会議所や日本人会などの協力を得て、セミナーを開催していきました。

 

セブ市では、北九州市のエコタウンなどから産廃業社がきて、いくつかのプロジェクトを実施していました。例えば、廃棄された携帯電話を回収しリサイクルできる金属や部品をリサイクルするプロジェクトなど。残念ながら、このプロジェクトは成功しているようには見えませんでしたねえ。なぜなら、フィリピンでは携帯電話は「お下がり」市場があるんです。つまり、古くなったり、何処か故障したりした携帯電話機は、買取業社がたくさんがあり、その業者が故障などを治して安く販売する、予算のあまりない人がそれを買う。このビジネスが非常に大きなマーケットを持っているからなんです。

 

フィリピンでは、非常に厳しいルールを設けて産業廃棄物に関しては基本的に正しく処理をしようとしているのですが、家庭ゴミはまだルールが徹底できていない状況です。ゴミ収集車が回収に回るのですが、家庭ゴミは十分に選別されていません。トラックには、いくつかの大きな袋が側面に吊るされていて、回収中にリサイクルできてお金に変わるものを回収している人が選別し、ゴミ処理場に到着する前にお金に換え小遣いにしているのです。

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 そして、ゴミ山には住み着いている人たちがいて、お金に変えられるものを拾い集めて現金化しています。その人たちのことを、スカベンジャーと呼んでいます。その多くが子供達なんです。水銀のついた蛍光灯を踏んでしまって、死んでしまう子供までいるというのが現状です。

 

ゴミの選別というのはとっても大事なことで、それは手間のかかることであり知識も必要なアクティビティなんですよね。わたしたちは、セミナーを通じてまた政府や自治体との会合を通じて、学校教育にしっかり組み込むことの大事さを強調してきました。社会のルールを徹っていさせていくには、子供たちが最も強力な教師になるんです。親は、子供に言われて嫌と言えませんから、そうでしょ?

 

フィリピン人の多くは、まだゴミは金に変わるという意識があり、業者が処理費を請求するのが難しいということが最大の問題です。少なくとも蛍光灯は100%輸入であり、税関が全て押さえてるわけです。ですから、そこでリサイクル税を付加すれば済むわけです。環境省には、台湾の事例を伝えました。台湾ではそれを実施しているが、なぜか蛍光灯がすべて製品として市場に出ていなくて、税金が処理費として100%処理業者にいかず、30%近く税金が残るという事実を伝えたのです。これは、いわゆる彼らに対する「飴」なんですね。

 

そうすれば、遅かれ早かれLEDの価格が下がれば、蛍光灯からLEDに変わっていくことを訴えました(LEDからは別の廃棄物が出るのですが)。まあ、省庁間で連携して行う制度には、なかなか合意が取れません、これが現実です。

 

わたしが、セブのプロジェクトのためにマニラから航空機で移動した時のことでした。近くに上院議員のシンチャ・ヴィリアー女史が乗っているのを発見しました。彼女は、わたしの住んでいたラスピニャス市在住で、ベニグノ・アキノ3世(愛称ノイノイ)氏と大統領選で戦った不動産王の一人であるマニー・ビリアー氏の奥さんに当たります。お父さんは、ラスピニャス市の市長の座に長期にわたって座っている、ネネ・アギラー氏に当たり、いわゆる大金持ちです。上院では、環境問題を代表する議員さんでした。

 

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シンチャ・ヴィリアー上院議員



これは、チャンスとばかりに駆け寄って、わたしたちのプロジェクトを説明し支援を求めたところ、帰ってきた言葉は「日本でしょ?高いばかりで話にならない」でした。愕然としました。コストだけで考えて一蹴するのが、この国の環境担当上院議員なのかと。

 

わたしたちの最大の目標は、フィリピンが水俣条約を批准することと、自ら水銀処理の技術を取り入れ運用してくれることでした。でも、「こんな上院議員がいるようじゃあ、時間かかるなあ」というのが正直な感想でした。

 

セブのプロジェクトも第1回の回収と日本への運搬も終わり、さああとは水俣条約の批准だと意気込んでいました。ところがです。ふと気づいたのは条約に批准したらフィリピンにある水銀はすべて国内で処理しなければならないということに気づきました。

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何ができるか考えていると、ふと思い出したことがありました・蛍光灯処理についての業界分析をしているときに、フィリピン・エネルギー省が、蛍光灯の破砕から水銀抽出(純度は若干低く、蛍光灯の破砕粒度が細かすぎてガラスのリサイクルに制限があった:日本ではガラスは再度グラスなどに加工され販売もされる)までできる全長約30メーターほどの機械(ヨーロッパからアジア開発銀行の融資で購入)があることを思い出した。

 

もう一度エネルギー省の担当ディレクターに詳しく話を聞きに訪問したんです。最大の疑問は、なぜこれを環境省ではなくエネルギー省が手に入れたのか?なぜ稼働させないのか?でした。きっかけは、政府関係の全建造物の蛍光灯をLEDに交換するという決定があり、そのためにその蛍光灯を処理することができなければいけないので、LED化担当のエネルギー省が急遽購入したというのです。

 

さてそれが、環境省がお気に召さなかったようで無視し続けているというのが実情だった。しかも、エネルギー省は稼働させた場合、外部コンサルタントを使って蛍光灯1本あたりの処理コストを計算したところ20ペソ(約40円)弱だと言ってい流のです。わたしは、どうしても信じられませんでした。この機械を稼働させないで放置していると、機械のコストの回収もできず、倉庫代も毎月かかる、スキャンダルだと言わざるを得ない状況でした。

 

とりあえずこれをメンテナンスして、われわれがオペレータを出して(もちろん政府から費用はもらいますが)稼働させるのが一番良い方法だと思い、国連のUNEP、UNIDO、野村興産に提案しました。「その方向でやってみてくれ」ということだったので、エネルギー省のトップクラスと協議させてもらえるように働きかけました。

 

そこで得た合意は、どこか自治体に機械を寄付するということでした。ということは、機械の運搬費から自治体の負担になるわけです。そうなると選択肢は一つです。最大の自治体であるケソン市に提案するしかない。そのためには、運用コストも計算して自治体が回収可能なのかを提示して見せるしかないわけです。そこで、エネルギー省が外部コンサルタントを使ってコスト計算をした報告書をコピーさせてくれるよう要請しました。ところが、出てこない。つまり、嘘をついていたわけですよ。で、蛍光灯1本あたりの処理コストが20ペソだなんてことはあり得ないというわたしの勘ぐりは正しいと確信し、コスト計算を機械を製造している会社か、メンテナンス会社にお願いしようとリサーチしました。米国にメンテナンス会社があることがわかり、メールで協力を依頼しました。わたしがフィリピンでの労働者の賃金やその他の見積もりを提供し、コスト計算が仕上がりました。

 

次に重要なことは、抽出した水銀をどのように埋め立てるかです。そのためには、特殊な容器が必要で埋め立てに適した場所と埋め立て方を、野村興産のコンサルティングをしてもらうしかありません。

 

ここまでお膳立てをして、ケソン市およびエネルギー省に「あとはあなたたちで話し合ってください」と言って、わたしは身を引きました。UNEPのDr. Desiree Montecillo- Narvaezと一緒に食事した際に「よくやりましたね」と褒めていただき恐縮しました。

 

フィリピンでは、条約に調印する際に全省庁の合意を取るというルールがあり、2年間ある一つの省庁が、合意しなかったために条約の締結には至らなかったのですが、ようやく調印したと情報が入り一安心。しかし、いまだにあの機械が稼働しているという話は聞きません。どうなることやら心配です。

 

このプロジェクトの詳細は、「Zeromercury projekut報告書」をお読みくださいね。このプロジェクトを通じて、環境省、エネルギー省、保健省、各自治体と信頼関係もでき有意義だったと思います。

 

でも、環境改善プロジェクトは継続できるかが大事ですね。

 

ではでは