徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

一本につながったスパゲティ!

 

台風がこの3連休に連続してやってきました。遠出を計画していた人には残念でしたね。わたしは、幸運にも富岡製糸場下仁田へ妻と行ってきました。まあ、台風一過で秋空がやってくればいいんですけどね。なぜかしら秋っておセンチにしてくれますよねえ。秋の風の中で歌ってみたい曲って、みんな違うんだろうけど、わたしの今の心境ではまずこれかなあ!

  あの頃の未来に 僕らは立っているのかなぁ
  すべてが思うほど うまくはいかないみたいだ
  このまま どこまでも 日々は続いていくのかなぁ
  雲のない星空が マドの向こうに続いている

  あれから僕たちは 何かを信じて来れたかな
  夜空の向こうには もう明日が待っている

そう『夜空ノムコウ』です。世の中にはいろんなことがあるけれど、隠居のような生活をしていると頭の中はいろいろな考えが巡るのだけれど、行動するには身体がゆうことを聞きません。ついついこれでいいんだろうかと不安になる。大学生だった頃の自分を思い返すと、世の中の矛盾に、なぜこんなことが許されるんだと思う事毎に、知識や理論をわんさか溜め込んで、多くの友と夜通し議論をして、突進していった情景が瞼に浮かんでくるんです。

 

まだ、ロシアによるウクライナ侵攻は続いています。状況は、ウクライナ軍がロシア軍から南東部地域を奪回し、ロシア軍が特定地域に軍を移動させたようです。つまり、プーチン大統領の当初の思惑通りには、ことが運んでいないと言うこと。日本でどれだけの人が、目の前で展開される戦争に、注視しているのだろうか。ベトナム戦争以降、世界中の人々がさまざまなメディアを通じてまるで目の前の戦場を見ているかのような体験をしているはずです。

 

先日、ソ連邦の初代大統領であったゴルバチョフ氏が、亡くなられました。ゴルバチョフ氏は、ペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)を掲げて、民主化に奔走された指導者です。わたしの中ではなんと言っても、「悪の帝国」とソ連を読んでいた米国のレーガン大統領に核軍縮のテーブルに就かせ、成果を出したことが忘れられません。ゴルバチョフ氏の葬儀にプーチンは列席しませんでした。プーチンは、ゴルバチョフの政治がきっと大嫌いなのでしょう。だから今、歴史を逆行させようとしているのです。(ゴルバチョフ氏のことは別の機会に是非述べたいとおもています。)

    

 

さて、プーチンの演説が現地時間の9月21日朝に始まりました。彼はこの中で、欧米がロシアの弱体化と分断を図り、最終的には破壊することを目指していると主張。そのうえで「国土と主権、領土の一体性を守り、国民と解放地の住民の安全を確保するために、国防省と軍参謀本部が提案するロシア連邦の部分的動員を支持する必要があると考える」と述べたのです。プーチンはさらに「ウクライナ政権が今日、ドンバス問題の平和的解決を拒否したうえ、核兵器保有権を発表したことから、ドンバス地方でこれまで2回と同様、新たな大規模攻撃が避けられないことは明白になった」と述べました。

 

毎度のこと、勝手に事実をでっち上げ、国民を騙し、正当化しているわけです。「戦争の最初の犠牲者は真実である」という言葉がありますね。そして、召集令状は、発表の翌日には配布されています。発表後、国外に逃れる人たちが急増、そしてあちこちの街では「戦争反対」を叫ぶ若者たちが街頭に出ました。驚いたのは、検索エンジンで検索されたキーワードが「腕を骨折する方法」だったという。この戦争に行きたくない人たちが行動を起こし始めたのです。

      

 

街頭で逮捕された人に、その場であるいは刑務所で、召喚状が渡され戦争にゆく意思があるか踏み絵を踏まされていると言います。ちょっと考えてみてください、あなたなら試合する意思の無い選手を9回裏で逆転するために起用しますか?一体プーチンは何を考えているのでしょうか、不明ですよね。

 

街頭に出て「戦争反対」と叫ぶ人へのインタビューで次のような主張をしている人がいました。

「自分の意志を示すのは義務です」、そして「この事態を早期に認識すべきでした」と。わたしは、このインタビューを聞いて「おいおいなぜ?」って思いました。これはとても大事なことです。

 

日本では、第2次大戦前に兵隊として軍に所属していたのは、多くが農村の青少年でした。これは、2.26事件の首謀者として処刑された安藤大尉など青年将校もやはり農村出身で、若い兵士たちの家庭の惨状(不況と凶作で姉妹を身売りしたり、口減らしをして食い繋いでいる)を思いやり、自分の給与を分け与えていたと言う事実があります。当然そう言う状況で「国」に命を捧げている兵隊からすれば、その惨状を救う手立ても打てず、豪邸で美味しいものを食べている政府要人を見れば「許せるものか」と思うのも当然です。決してこの事件をよしとするわけでは無いですが、同情できるところもあると言うことです。

 

ロシアに話を戻すと、ロシアも同じように戦場に行った兵士には、地方の貧しい農村の人たちが含まれています。ロシアには、学生は招集しないという法律もあってか、モスクワなどの都市部の人々には人ごとだったのかもしれません。そして、果たして自分自身の生き死にがかかって初めて「戦争反対」と叫んだ人も多くいたのでは無いでしょうか?

 

「この事態を早期に認識すべきでした」、そうですその通りです。自分の生き死にが直接問題にならないと傍観者であり続けることは、どうなのでしょう。

 

アインシュタインは言っています、「悪い行いをする人が世界を滅ぼすのではない。それを目にしながら何もしない人が滅ぼすのです」。

 

さて、ここで我が身を振り返ってみましょう。先日らい安倍元首相の「国葬儀」(岸田首相はそう呼んでいます)を巡って世論の反対は増加しており、反対デモや抗議集会が各地で実行されています。その主催者が会見を開き、外国特派員が次のような質問をしています。「今回デモの参加者は比較的高齢者が多いように見受けましたが、若者は何故少ないのでしょう?」と。やはり民主主義を掲げている国のメディアならそう聞いてくるのは当たり前だと思います。国葬反対デモの会見の主催者は、とても高齢の方でしたが、「若者へ高齢のものが十分対話していないことが原因。私たちの責任です」とおっしゃていました。

     

 

わたしもすでに高齢者と言われてもおかしく無い年齢になりましたが、年金や医療をめぐってよくある議論ですが、「高齢者は黙っていれば年金が入ってくるし、医療のサポートも十分受けられるが、若者は税金でそれを支えることはさせられても自分達が高齢者になった時にはそういうサポートもないだろう」と何か高齢者と若者が対峙しているかのように煽られることが多い。しかし、もしお爺ちゃんやお婆ちゃんが存命な家庭の方は、じっくり思い出してほしい。果たして「これは俺たちの年金で権利なんだ、お前たちに譲れるか」と言うと思いますか?いつも真っ先に子供や孫のことを意考えてくれますよね。オレオレ詐欺事件を見てもわかりますよね。

 

わたしは、小学校に上がるまではお爺ちゃんとも、大学へ上がるまでお婆ちゃんと同じ屋根の下で暮らしていましたが、「これ食べるか、あれは欲しいか」といつもまず私たち孫に気遣ってくれました。核家族化して物理的に距離ができたたからかそいうった意思疎通の機会が減ってしまいました。でも、ほとんどの人がわたしに同意してくれると思うんですよ。ならば、年金や医療、その他将来の不安を率直に打ち明けてみてはどうでしょうか?「おおわかったよ。じゃあこうしようか」と道を一緒に探してくれると思います。

 

主催者はこうも言っておられました。「若者が生まれて今までの時代を考えれば、政治は変わらないものだと思うのも無理ないかもしれません。だから、国葬に疑問を持っていたとしても意思表明をしないのかもしれませんね」と。インターネットとSNSの急速な普及で、自分の見たいものしか見ない、聞きたいものしか聞かない、という行動が目立つようになりました。自由な選択の中で鉄格子を無意識的にかつ自主的に打ち立てているように見えます。結果的に、ロシアと同じようにプロパガンでがんじがらめにされているのと同じようなことになっているのではないでしょうか?

 

そして、ロシアと同様に自分自身の生き死にが問題になるまで、傍観者で過ごすのではないかと心配です。「国葬儀」如きがなんでそうなるというの?と言われるかもしれません。いや、きっとそうでしょう。

 

それを納得するには、最低限の知性が必要です。わたしは大学時代に法社会学と国法学を専攻していました。多くの学生は、民法行政法を解釈するゼミを専攻します。何故ならば、公務員試験に役立つからです。わたしはひねくれ者でよくこんな質問を投げていました。「じゃあ何故民法に書かれたこの条文が今ここに存在しているか?」と。解釈法学しか学ばない学生には答えられません。これには、社会科学の多くの知識が必要になります。なので、「君は久しぶりのゼミ生だよ」と法社会学の甲斐道太郎先生がおっしゃっていたのを覚えています(ゼミ生はわたし一人)。国法学というのは、ドイツ基本法、つまりドイツの憲法学、これも解釈法学ではなくその基本精神やどちらかというと憲法哲学のような学問で、栗城壽夫先生に学びました。法社会学では『法と経済の一般理論』(藤田勇著)や川島武宜先生などの法社会学近代法の諸文献を使って法のGenesis(発生学)を学びました。

 

さて、岸田首相の「国葬儀」発言が出てきた時にわたしがすぐに考えたのは、憲法に照らしてどうなのかということでした。それと、最も大事なデュー・プロセスの問題です。デュー・プロセスというのは、日本人の感覚では飲み込めないかもしれない、けれど法治国家では最も大事な概念なのです。簡単に言うと日本国憲法31条には、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」と定められています。


簡単に言うと、「法の適正な手続」によって、人身の自由を保障することです。 『復讐法廷』と言うヘンリー・デンカーの小説をご存知でしょうか?ある女性(アグネス・リオーダン)の強姦・強盗・殺人事件にまつわる話です。警官は、ジョンソンという黒人をイタリア人(白人)ばかりが住んでいる地区に、遅い時間に黒人が一人歩いていた。顔には引っ掻き傷があった。職務質問をしても曖昧な返事だった。身体検査をしたところアグネスが所持していた時計や装飾品を所持していた。その他アグネの体内から採取した精液が、ジョンソンのズボンに付着していたものと一致し、爪から検出された血液など全く真犯人と見紛うべきもない証拠が提出され、確実に有罪だと思われたが、裁判官が下した判決は無罪だったのです。

              



裁判官は、提出された証拠が間違いないことを全く認めたにもかかわらず、これらの証拠を証拠として採用しなかったのです。裁判官は、ジョンソンがアグネスから強奪し、強姦し、殺害したことも認めているのです。さあ、ここで「ええっ?そんなおかしなことがあるものか?」と思う方が大半だと思います。

 

思い出してください。憲法31条を。「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」。つまり、警官がジョンソンを拘束した状況「イタリア人(白人)ばかりが住んでいる地区に、遅い時間に黒人が一人歩いていた。顔には引っ掻き傷があった。職務質問をしても曖昧な返事だった。」これが適法ではないということなのです。「予断と偏見」で人の自由を奪ってはならないと言うことなのです。まだ合点いかない人もいるでしょうが、これが近代法の原則なのです。もし、ジョンソンが立ち小便でもしていて、拘束され、上の証拠が採取されたのなら確実に有罪判決を受けたでしょう。これがデュー・プロセス原理なんです。まあ日本ではこの違法性が見逃されていることが多いのですが。

 

裁判官がまずせねばならないのは、このデュー・プロセスのチャックです。是非是非覚えてください。「裁判は手続き」なんだと。次に公金を使用するのに「国葬儀」という定義(もちろん岸田首相の)で彼のとったデュー・プロセスと法の理解で問題ないのか?ということです。ここのところは憲法学者や他の優秀な知識人が説明されているのでここではふれません。

 

政治家とは何かをもう一度認識する必要があります。政治家とは、自由な討論を通じて国策を実現するために立法し、国民の自由と財産を守るために国民から選挙で選出された議員です。

 

安倍政権時代から行政文書の改竄やなんやら、そして北朝鮮や中国との間の緊張を高め、どう考えても憲法や統治原則のイロハを知らないか、無視をするような政治家や政府を容認しておくと、ロシアや中国のように日本はなってゆくと言うことが充分考えられます。あなたにも召集令状がやがて届くでかもしれません。しかも彼ら自民党はたった国民の25%の有権者の票しか獲得してないわけです。多数者だと奢るのはいかがなモノでしょうか

 



アインシュタインは言っています、「悪い行いをする人が世界を滅ぼすのではない。それを目にしながら何もしない人が滅ぼすのです」。

 

このパンデミックやロシアの侵攻で、物価が上がったり、石油やガスの価格が上がったり、経済制裁でロシアは武器も作れない、とか水際対策で鎖国状態になったり、とある国の状況が全世界に影響が及ぶことを世界中の人が知ったと思います。つまり、スパゲティのように世界は複雑に絡み合っていますが、実は一本のヌードルなんだと言うことを学んだはずです。もう、対岸の火事はあり得ない。自分事として考え、意思を表明し、行動をすること。最悪の事態になる前に、最善を尽くすことが必要だと思うのです。

 

その兆候は、きちんと政治や世界情勢を監視していれば分かってきます。かつて文豪の永井荷風が著した日記『断腸亭日乗』を見ていると、情報が国民に届けられていないと言われていた戦前でも、世界の様々な事象を捉え、軍国主義的世相がいかに馬鹿げており危険であるかを述べることができたことを見ても、今の時代にそれが出来ないはずがないと思います。目を開けていましょうね。

 

でわでわ