徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

井の中の蛙大海へ飛び込め!

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東北や北海道、そして日本海側では記録的な大雪となっています。わたしが住む地域でも。2020年から住んでいますが先日初の積雪を見ました。妻は、フィリピン出身で雪を見ることは当然んなく、雪が降ると車の運転を怖がります。ニュースで雪の中で起こる自動車事故を見れば、自分は正しく運転できていてもいつ何時他の車がスリップでもして追突してくるかわかりませんものね。

 

さて、そんな中、我が家ではちょっとした問題が起こっています。まあ、困った問題では無いのですが、頭を悩ませていることは間違いありません。

 

2020年の8月に家族で日本へ移住してきたのですが、当然連れてきた妻と娘にとっては初めての日本生活です。何かと苦労をしています。最たるものは日本語です。フィリピンだと英語がわかればフィリピン語を知らなくともなんとかやっていけますが、日本は日本語がわからないと全く生活できないところです。

 

わたしには二人の娘がおりまして、上は今フィリピンで医学を学んでいます。連れてきたのは、下の娘で2020年は中学3年生として市域の公立中学で学びました。そして2021年高校に進学するわけですが、この地域(群馬県伊勢崎市)は車のスバルをはじめ多くの工場が存在します。そのためか、ブラジル、ペルー、フィリピン、などからきた多くの外国人が住んでいます。

 

当然ながら、不十分な日本語力で学ばなければならない子たちも多くおり、一般の高校へ進学するのが難しいわけです。幸いにも、今は、わたしが高校生だった頃にはなかった単位制の高校があるんですね。そこは、数学や英語などの成績だけでなく、入学したい動機やプレゼンテーション/コミュニケーション能力を重視しています。その結果、外国人の子弟や中学である意味で落ちこぼれた日本人の子弟が入学してきます。そして、自分で計画をたて3年で卒業しても良いし4年で卒業しても良いという柔軟なシステムになっています。

 

家族で相談をして、娘はその高校へチャレンジすることになり、幸いにも入学を果たす事ができました。わたしの娘は二人とも、フィリピンのモンテソーリ(「自立していて、有能で、責任感と他人への思いやりがあり、生涯学び続ける姿勢を持った人間を育てる」ことをモットーにしている学校)という私立の進学校で勉強しました。日本に連れてきた下の娘は、成績が良く1年飛び級していましたので、学力には問題ありません。

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日本語も日本語検定4級に先日合格しましたが、社会科や理科などなどの問題を読み解くにはまだ難しい状況です。しかし、数学や英語そしてスペイン語(ブラジルやペルーの子供たちもいるからこの授業があるようです)は、最高クラスの成績を取得しています。本人にとっては、大学を考えた時にやはり不安なようで海外の大学に行きたいようです。

 

わたしは、娘には「学校は行きたく無いなら行かなくていいんだよ」といつも言ってきました。特に日本の学校なら行かなくても良いと思っています。専門に勉強したい事があるなら、あえて保健や古文なんかに時間を費やす必要は決して無いと思っています。わたしは、自分の経験として本気でそう思ってきました。今ならインターネットでさまざまな知識は瞬時に手に入れる事ができますからね。世界を見渡せば、台湾のデジタル大臣のオードリー・タン氏のように学校をドロップアウトしても、立派な仕事ができ企業にも認められる人もいます。学校をドロップアウトした秀才は決して稀では無いわけです。

ただし、多様な個性や能力を持つ人々の中で、共に助け合い活動する知恵を学ぶには学校という場は欠かせないとは思います。しかし、こと高度な専門能力を鍛錬するには、今の日本の学校では難しいと思うのです。

 

先日ノーベル物理学賞を受賞された米プリンストン大学上席研究員の真鍋淑郎氏の会見で「日本からアメリカに国籍を変えた主な理由は?」との記者の質問に対する回答で、「彼ら(日本人)はとても調和的な関係を作っています。日本人が仲がいいのはそれが主な理由です。ほかの人のことを考え、邪魔になることをしないようにします。日本で「はい」「いいえ」と答える形の質問があるとき、「はい」は必ずしも「はい」を意味しません。「いいえ」の可能性もあります。なぜそう言うかというと、彼らは他人の気持ちを傷つけたくないからです。だから他人を邪魔するようなことをしたくないのです。」と同調圧力のことを述べられ、それが嫌で国籍を変えたというようなことをおっしゃっていました。

 

わたしも同感です。日本では、「変わり者」でいること、「とんがって」いること、などをよしとしない。大人しく「上」のいうことに従い、隣と同様なことをして輪を乱さない、そんなことが学校でも会社でも社会でも求められます。Apple社が1984年にIBMの独占を警告する有名なテレビコマーシャルを作りましたね。まさに、同じ服を着て、同じような髪型で、全く生気のない人間が隊列を組んで行進をしていた、あのシーンを想起させます。ですから、指導者と生徒が議論することもない、仲間の間でディベートをすることもない。板書された事項をひたすら暗記する、そんな教育が行われています。

 

平成14年から実施された「学習指導要領」を見てください。「ゆとり」「総合教育」など耳障りの良い言葉は並んでいますが、教科は増えているのに1週間でこなす単位数は減っています。てんこ盛りの薄っぺらな内容の授業しかできない。そして教師には、これまたてんこ盛りの仕事が求められます。「体罰の禁止」や「パワハラ」に細心の気を遣いながらの生徒指導や事務処理、これでは教師も身が持たずストレスフルな毎日を送らねばなりません。そうなると、生徒も教師も劣化する一方。

 

娘に、「フィリピンではどうだった?」と訊いてみた。開口一番「日本の学校はあれはダメこれはダメと規則ばかり多くて、こと学習に関してはゆるゆるだ」との返答。フィリピンではまず若年層の数が日本と比べてとんでもなく多い。学費の安い公立の学校にはものすごい数の生徒がいます。進学を考えている比較的裕福な家庭の子供は、娘の通っていたモンテソーリ校やラッサール校などの私立に行きます。日本のように科目は多くありません。しかし、ものすごい量の課題(宿題)が出され、またプロジェクトと呼んでいる個人又はグループでの発表が頻繁にあって、中学の時も夜遅くまで取り組んでいたのを覚えています。

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わたしが数学の教科書を見た時、「わたしが中学の時、こんな難しい数学を学んでたっけ?」と驚きました。わたしは数学が大得意だったので、鮮明に覚えています。もちろん公立の学校のように1クラスの人数も多くなく、1クラスが30人ほどで教師の目も届きやすい。能力別クラス、と言っても1学年で高低2クラスくらいですが分かれている科目もありました。日本とはずいぶん違っており、娘が指摘するように、日本の学校の従業は「ゆるゆる」だというのがよくわかります。すでに中学校時代からまるで先進諸外国の大学で学んでいるようなものですね。

 

娘は、ソフトウェア開発と音楽に特に興味を持っており、学校が「ゆるゆる」なぶん、独自にギターやキーボードなどを練習したり、プログラマーの集団である「ハッカソンHackathon)」などのグループに参加しています。国際的なプログラマーの集団はいくつもありますが、そこに参加するには、英語が必須です。フィリピン人は世界でも高い英語力があり、アジアではシンガポールに次いで2位とされています。娘がなんなく「ハッカソンHackathon)」などの国際的なグループに参加できるのは、フィリピンで英語教育を受けてきたからです。

 

わたしは、フィリピンにいたときは娘になるべくフィリピン語のテレビ番組を避けて、英語の番組を見るように誘導してきました。その結果、フィリピン語の成績は英語に比べて少し悪かったですねえ(笑)。わたしは、決して勉強を押し付けたり、学校へ行くように強制することはしませんでした。娘は、友達と交流(良い友達を選ぶのに長けていた)したり、学校へ行くのはとても楽しんでいるようでした。

 

高校2年生になり、大学進学を考えるようなったのですが、アメリカのオレゴンに住む妻のおばさんから、アメリカの学校へ進学したらどうかというアドバイスがありました。イギリスやオーストラリアに住む親戚からも「こちらの大学へ進学してはどうか」と色々アドバイスをもらい、娘もその気になったようです。それで、ならば進学に必要な準備が日本の大学進学とは全く違うので、アメリカの高校へ早期に転学したいと相談にきました。

 

最初聞いたときは、「アメリカへ行くということ?」と思ったのですが、話してみるとオンライだけの授業を提供する学校があり、それに入学したいということでした。おばさんのアドバイスでもアメリカの大学へ進学するなら、非常に優位だということなので了承しました。

 

昨年、茨城県の公立高校から18歳の松野知紀さんが、ハーバード大学へ入学するという記事が出ていました。ここ数年、日本の公立高校からアメリカのトップレベルの大学に合格されたニュースを目にするようになりましたね。いずれも、積極的にリサーチし、社会活動にも盛んに参加する、自分で道を切り開いていく方がであることが共通点です。AERA誌の報道によると、「TOEFLアメリカの共通テスト・SATのスコア。それに、高校の成績書と教員の推薦文、課外活動の記録、エッセー、面接なども課される。学力はもちろん、人柄や高校3年間での努力も重視されるのだ。そこで松野さんは東京マラソンの英語通訳、ディベート大会の審査員などの募集をネットで見つけ、積極的に応募した。茨城にいて、待っているだけで情報が来る環境ではなかった」ということです。

 

最近、YouTubeやメディアに登場するようになった、イェール大学教員の成田悠輔さん(なりたゆうすけ:東京大学大学院経済学研究科修士課程修了、マサチューセッツ工科大学よりPh.D.取得:データで教育の効果などを測定し分析)と乙武洋匡さん(『五体不満足』の著者)が教育についての対談をしていました(乙武洋匡の情熱教室「成田さん学校って必要ですか?」)。その中で、学校教育は多様な生徒や教師が共に活動し生活を学ぶ場としては必要だが、そこから離脱する自由を許容すべきで、こと特別なスキルや知識(数学、音楽、語学etc.)を手に入れる場は別途区別すべきではないかと述べていました。

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全く賛成です。しかも、有名校へ進学したからといって優秀になったという結果を示すデータはなく、優秀な人間が優秀になっているだけ。ただ、教師がそのの質や学力を伸ばすのが上手かどうかは、結構結果に影響するというデータはたくさんあるという。教師を選ぶというのはとても大事で、例えば故小室直樹先生のようにフルブライト留学生として経済学の本場アメリミシガン大学大学院に留学。ダニエル・スーツから計量経済学を学び、さらに奨学金を得て研究を続けた。1960年マサチューセッツ工科大学大学院で、ポール・サミュエルソンロバート・ソローハーバード大学大学院ではケネス・アローチャリング・クープマンスらから経済学を学び、翌1961年、再びハーバード大バラス・スキナー博士から心理学(行動主義心理学)、タルコット・パーソンズ博士から社会学ジョージ・ホーマンズ教授から社会心理学など学問の分野を超えて社会科学を学んだとある(Wikipediaより)。

 

さらに1963年東京大学大学院法学政治学研究科に進学。丸山眞男が指導教官となり政治学を学ぶが、小室氏が心理学ばかり勉強しているので、丸山の弟子の京極純一に預けられた。その他にも、東大のゼミナールを渡り歩き、中根千枝から社会人類学を、篠原一から計量政治学を、川島武宜から法社会学をそれぞれ学ぶ。つまり、超一流と目される教官を選んで師事されたわけですね。

 

“天才とは努力する凡才のことである”とは、アインシュタインの言葉ですが、まさに故小室直樹先生のような人を言うのでしょう。娘には、まさにそのような生き方を推奨しています。そして、それが貫き通せるのはまだ幸せな状況にいることを自覚してほしい。日本では、今や、世界に通用する論文を書ける研究をしている大学もほとんど無いのが現状で学生もいわばモラトリアムを過ごすばかりのようになってしまっています。成田氏によるとアメリカのイェール大学では、膨大な宿題が出て膨大な文献を読む事が求められ、休みの時は有力企業でインターンをしなければならない。教育投資を回収するために、忙しくするサラリーマン以上に忙しいのが現実だという。

 

昨年の10月21日第18回ショパン国際ピアノコンクールで、51年ぶり内田光子さん以来の2位入賞を成し遂げた反田恭平(そりたきょうへい)さんをご存知だろうか?彼は、『日本は好きだけど、好きじゃない。「馴れ」を断ち切って世界へ出よう』と文藝春秋の2022年3月号でおっしゃていました。音楽教育の内容や生徒たちの音楽教育やプロへ向かう姿勢に、彼は危機感を持っている。反田さんは言う、「現実、一万人規模の音大卒業生が誕生するが、そのなかで、音楽で食べていけるプロになれるのはほんのわずか。ゼロパーセントに近い」と。

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音楽大学芸術大学へ行っても、「プロになるための努力をしていない」「いまの大学では技術は教えられても、演奏家を一人で食べていけるよう育てる授業はほとんどないのが現状」。そして、先生と生徒は議論をすることもなく、先生が、「ここはこう表現するんだ」と言えば生徒は無条件にそれに従う」。諸外国とは全く違う。先生と生徒が、さまざまな議論をして生徒は最終的に自分の表現を確定していくのが本当で、反田さんは、先生の解釈が理解できないときは「先生は作曲家と会ったことがあるんですか?」と平気で言っていたそうだ。

 

韓国、中国、ベトナムからショパンコンクールの一位が出ているのに、日本からはまだ出ていない、と日本の音楽教育の現状を嘆いておられます。つまり、日本の教育は、コピーを量産しているに過ぎないと言うことですね。日本は、非常に整った設備の中で音楽教育を受ける。しかし、鍵盤が打鍵しても下がらなくても、音が出たものとイメージして練習する、これがロシアやポーランドなど諸外国では普通のこと。ピアノを使わずに譜読みをする術や、頭の中で音を鳴らす技を身につけるように鍛錬をするそうです。

 

さらに「作曲家自身がいろいろな苦労をし、さまざまな想いを抱えて生きてきたから。幸せなだけの人生の中で音楽を作って来た人はきっといないでしょう。だからこそ演奏家は、それに匹敵するくらいの人生を送らなければ、曲に込められた感情を表現し、自分なりの音をつくることはできないと思います」と一度は世界に出て鍛錬を積むことを推奨されているのです。

 

娘を通して、自分が抱いていた日本の教育への違和感を熟考することができました。いかがでしょうか?

 

でわでわ