徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

『人民を忘れたカナリヤたち』

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再び新型コロナの陽性患者が急速に増加しています。オミクロン株恐るべし。でも、以前とは異なり重症化率が低いこともあり、またイギリスやフランスなどではピークを過ぎたとこともあって、日本政府のまん延防止などの対応策に疑問を投げかける声も多くあがっています。

 

さて、大学入学共通テストが始まった15日、東京都文京区の東京大学周辺で受験生らが襲われる事件が起きました。昨年から小田急線や京王線の刺傷事件、そして大阪・北新地のビル放火殺人事件など、無差別に人々に危害を加え、自らも死を望むような事件が相次いでいます。

 

思い返せば、2008年6月8日に東京都千代田区外神田で発生した通り魔殺傷事件では、7人が死亡、10人が重軽傷を負っている。これは秋葉原無差別殺傷事件と呼ばれています。さらには、2018年に東海道新幹線車内の殺傷事件、19年には京都アニメーション放火殺人事件が起きました。

 

「他人を巻き込んだ間接的な自殺」にみえる事件が目立ち始めています。はて、これらは私たちが理解できない特別な人が起こした事件なのでしょうか。

 

前途を悲観したり、人間関係に絶望して自殺するというのは、日本では昔からありましたが、この手の事件は、1968年10月11日に発生した「永山則夫(当時19歳)連続射殺事件」(在日アメリカ海軍横須賀海軍施設から盗んだ拳銃を使い、男性4人:警備員2人・タクシー運転手2人を相次いで射殺した事件)を思い起こさせます。

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永山則夫

永山則夫事件」には、無視された『封印された精神鑑定』(ETV特集 永山則夫 100時間の告白 ~封印された精神鑑定の真実~)があります。鑑定をしたのは石川医師でした。石川医師は、詳細に永山則夫とのやりとりから犯罪に至る経緯を分析している。少年が凶悪犯罪に至るというのはヨクヨクの事があるから、しっかり調べてやらないといけないが、司法にはそういった意思がなく無視をしている」と指摘しています。

 

永山は獄中で心理的に回復を遂げ、ベストセラーとなる『無知の涙』の執筆や被害者家族への印税の送金、同様な幼少期体験をもつ一般人女性ミミとの獄中結婚、彼女と二人三脚で自身のつらい少年期を見つめ直し『木橋』などの小説として発表するなどしました。そして1997年8月1日に東京拘置所で死刑が執行されました。

 

永山は自らの小説の印税を被害者遺族に送るだけではなく、社会の最下層で教育を受けずに労働を余儀なくされているペルーの子どもたちのための基金に使っていました。貧困に置かれ、無知の涙を流した自分のような者を二度と生まないために、教育による解放を願ってのものであったようです。執筆はひたすら贖いのために続けていたのです。

 

この事件は、その生い立ちや独房に入ってからの償いの姿勢や失った学びを取り戻そうとする努力などを見て、刑務官たちを含め多くの人が死刑を執行すべきではないと思っていました。ところが、その死刑執行の現実を知って、国家権力への憤りと刑務官であることのやるせない罪意識まで醸成しているのです。

 

文春オンラインから引用します。

 

 永山は死刑場に連行されたときは既に意識を失っていたのではないか、連行時に暴れた永山は制圧という名の暴行によって死刑執行後の遺体を見せられないほど傷つけられ、クロロホルムといった麻酔薬を使用されたのではないかと私は想像しました。永山は独居舎房を出た渡り廊下から職員に担がれて死刑場に運ばれたのです。そして意識のない永山に、処遇部長は形だけ死刑執行を告げる言い渡しをし、そのまま刑壇に上げて首にロープをかけ、床を落とした。おそらく本人は自分が死刑執行されたことも分からないままに絶命したのだと思いました。その想像はほぼ当たっていました。

 私がこれらの永山の最後を知ることができたのは、後日8人の刑務官から送られてきた匿名の手紙によってです。そこには、死刑執行の様子だけでなく、死刑に対する率直な思い、例えば、更生させた人間を殺さなければならない矯正職員である刑務官の自己矛盾といったことも書かれていました。また、出世に汲々としている幹部を許せないという思いなども綴られていました。永山の処刑には多くの刑務官たちが心を痛めたのです。

 死刑執行当日、朝食後執筆をはじめた永山は突然、独房から引き出されました。机上には書きかけの原稿があり、脇には未完成原稿と多数のノートもあった。それらすべての遺留品が遺骨とともに引受人に渡されたかは不明です。私はかつて刑務官という国家権力を背景にして仕事をした一人として、また議院内閣における法務大臣を間接的に選んでいる日本国民のひとりとして彼に心から謝罪したいのです。」

 

 

永山則夫事件は、このような問題を世の中に投げかけたのですが、どうしてこのような凶悪犯罪を犯すに至ったのか、家族・地域・社会がどのように関わってきたのか、ということを真剣に考えなければらないないと思うのです。言い換えれば、『封印された精神鑑定』から社会を浮き彫りにし、私たちが心に留めなければならないことが何なのかを考えたいのです。処刑したからといって、犯罪は無くならないのです。

 

社会学者の宮台真司氏は、「人を殺せないのは、殺してはいけない理由があるからではない。殺せないように育つからだ。そうした感情面の発達は、どんな人間関係の中で育ったかで決まる。」とおっしゃっています。「愛」に代表されるように「人と人との距離や関係性」を考えてみてほしい。

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宮台真司

わたしは、1960年生まれです。所得倍増をスローガンとした池田内閣の時代です。まさに「Always 三丁目の夕日」から数年後、東京タワー完成から東京オリンピックの間。高度成長期真っ只中でした。この頃の地域には、地蔵盆があったり町内会がさまざまな催しをしていました。悪さをしている子供を見つければ、自分の子ではなくとも近所のおっちゃんやおばっちゃんが「こらこらそんなことをするんじゃないよ」と戒めてくれた。多彩な年齢層の大衆が、ごっちゃに関わって生活しているコミュニティが機能していた時代です。

 

わたしの年代は、高度成長、安保闘争、低成長、バブルなどを経験した世代ですね。良い仕事について頑張れば豊かに生活ができるという実感があった世代です(しかし、永山則夫が育った漁村・農村は違ったでしょうね。貧しく生活も厳しい閉塞的な地域でしたでしょうね)。ですから、異なった年齢層のごちゃっとしたコミュニティで、いろんな人生が学べたのです。

 

ところが、徐々にですが、ごちゃっとしたコミュニティが次第になくなっていきます。1960年代後半頃から各地でスーパーマーケットを初めとした大型商業店舗の出店が急増し、それに対抗して地元商店街による大型商業施設の進出反対運動も激しさを増すようになり、わたしの父も地域の八百屋・肉屋・菓子屋・玩具屋・帽子屋などを守るために、大手スーパーマーケットやデパートの建設計画があると地域で闘っていたのを覚えています。この頃から、個人商店が衰退し、習字やそろばん教室の順番を待つのに近所の天ぷら屋でコロッケ買って友達と食べながらおしゃべりしながら待つなんて光景も無くなってきました。

 

地域には差別もあったし、いじめもありました、けど、みんな「ごちゃっと絡み合いながら」生活をしてきたと思います。誰かが成功したら多くの人から「よかったなあ」「頑張ったなあ」と喜んでもらい、うまくいかなったら「頑張りやー」「大丈夫やって」って励ましてもらえる。そんな家族を超えた地域としてのつながりがありました。

 

宮台真司氏は、「60年代の団地化で地域が、80年代のコンビニ化で家族が、90年代のケータイ化で関係全般が、空洞化した」とおっしゃっています。

 

確かに、わたしが小学生の時代、1960年代はわたしの住む地域(京都市右京区)にはまだ古い1軒屋がほとんどでまだ舗装されていない道もあって、徐々に集合住宅や市営住宅などが建ち始めた頃でしょうか。しかし、大阪や東京では、人口が巨大化し地域外から職を求めて流れ込んでくる人も多くなり団地化が進んでいたのでしょう。

 

まだ、家族経営の八百屋や肉屋、洋服店惣菜屋がたくさんあって、買い物中にあった近所の人たちが井戸端会議をしたりといった光景が普段に見られたし、神社でのお祭りでさまざまな年齢の集団が思い思いの集まりを楽しんでいたのを思い出します。子供同士の喧嘩なんて普通のこと。まあ、教育熱は非常に高かったとは思います。塾へ通う子供も増えてきました。

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昭和の八百屋

大学を卒業して入った会社で東京に転勤になりましたが、東京ではマンション暮らしになり、食事もコンビニで買って食べる事が多くなりました。街のあちこちにコンビニとファストフード店舗ができ始めました。

 

1992年頃からフィリピンに遊びに行くようになったのですが、当時の恋人の実家は、トンド地区という真田裕之が主演し大森一樹監督が映画化した『エマージェンシーコール』の舞台になったスモーキーマウンテンのあった地区、にありました。犯罪者も住んでいると言われるフィリピンでも最貧困地域で巨大なインターナショナルポートのある側の地域でした。

 

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「外国人がよくそんなところに行きますねえ」「危ないよ、ジープに乗っていると腕落とされるよ」なんていろんな人から言われたものです(笑)。まあ、お母さんが教会で炊き出しなんかを手伝って地域でも有名人だったせいか、近所の人は優しくしてくれました。仕事のない男たちは、集まると度数の強いレッドホースというビールや超安いジンを焼き鳥をつまみに道端で飲むのが常の風景で、わたしが近くを歩いていると、あちこちのグループが「日本人かあ?まあ飲んでいけよ!」と呼び止めてくれるんです。

 

家の修理は手伝ってくれるし、調味料がなければ近所で分けてくれるし、とにかく集まるとおしゃべり。非常に心地の良いコミュニティでした。ご存知のようにフィリピンは平均年齢が24歳位でとにかく子供が多い。「貧乏なのにそんな子供作って学校どうするの?」って言いたくなりますよね。平気なんです、子供は宝です。障害を持っていても大切にされます。努力をして這い上がる子供もいます。トンドから這い上がった人、市長になった人、上院議員になった人、必ず地域に尽くします。そこには、いろんな人生があります。

 

フィリピンから帰国して、新橋あたりを歩いていると、ゾンビが歩いているようで何か生気のない人がたくさん歩いているなあ、と感じることが増えました。2007年からフィリピンに定住したのですが、年に1回帰国してゾンビの街にいるように感じ、日本に帰ってくるのに抵抗を感じるようになりました。

 

フィリピンは、貧乏でも明るくなんとかなるさと暗くならずに生活しています。酷い搾取をされていると思うし、貧富の格差もすごいものがあります。でも、ともかく明るい。窮地に落ちた困窮邦人(日本人)を助けているのも彼らです。どんなに貧困でも分かち合うんですねえ。これは全く日本にはないところです。「自己責任」とか「自助」なんてことを言って、知らんふりするのが日本社会。フィリピンのような慈愛と相互扶助の精神が、日本では完全に欠落していると感じるようになりました。だから困窮してもフィリピンが心地よいと思うのでしょうね。

 

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そして、フィリピンでは、麻薬、ひったくり、スリ、泥棒は多いけれど、日本のように人間関係のない人を無差別殺人するなんて事件は全くありません。殺人事件でもほとんど簡単に理由がわかる事件ばかり。

 

なぜなんだろう?きっと京都の子供の頃にはまだあった「ごっちゃに生きる」コミュニティが、なくなったからじゃあないだろうか。そして、日本では街ゆく人は、携帯電話を覗き込むばかり、そしてSNSというバーチャルで気の合う者だけのコミュニティで生きている。そこには「ごちゃっとした」コミュニティはありません。SNSの外部はというと、お決まりの価値観を押し付ける環境、「良い学校に行って良い会社に入って…」「…になって家業を継いでくれ」、に取り巻かれて育つ。その一線を外すと奈落の底・絶望に陥ったかのようになってしまう。悩みを打ち明けたり、助けてくれと縋れるコミュニティは、家庭ですら無くなっている。

 

宮台氏によると「子は、親の自己実現のダシにされ、進学校に入れと尻を叩かれるが、かつてと違ってその価値観の外が分からない」「地元の公立で優等生だった子も進学校に入れば、多くは教室で「ただの人」。自分を価値のない存在だと感じる。それで終わりではない。疑似共同体であるのをやめた会社でも、希薄な関係の中で置き換え可能な存在で、競争に負ければ「ただの人」。

 

回転寿司屋や多くのレストランチェーンの仕事もまさにそうだ。機械でこさえたシャリにカットされたネタを載せるだけ、冷凍されたネタをオーブンやレンジでチンするだけ、まさにいつでも誰にでもとって替われる仕事ばかり。コンビニやそのようなレストランで出来合いのものを買って帰れば、家族との共同作業でワイワイ食事することもない。

 

宮台氏、「だが、人の感情はこうした過剰流動性に耐えられない。「死刑になりたい」「誰でもよかった」と本人が語る無差別な加害行為の背後に、加害者自身が置き換え可能な「誰でもいい」存在として扱われてきたことによる怨念がある」。

 

かつてカルト宗教や新興宗教に入信する若者が増加した時がありました。オウム真理教がその代表だけれども、教団幹部は爆弾を製造できる高学歴者が多くいましたね。そういった敷かれた線を歩かされて矛盾を感じ、遂に社会への「怨念」を持って生きるという人は、ずうっといたわけです。現実の社会から逃避して、「あったかい懐」に縋ろうとしたわけです。その末が、大量殺人=社会の破壊だったのです。

 

宮台氏、「背景には、30年間続いてきた絶えずクビに脅(おび)える非正規雇用化や、絶えずハブられること(仲間外し)に脅えるSNS化もある。それをもたらしたグローバル競争とテクノロジー化は今後も確実に進み、「誰でもいい人」が量産される」。「また、日本に限らず、貧富の差があっても同じカフェで同じ服装で同じようにケータイをいじれるという「過剰包摂」が進み、弱者が連帯しにくくなった。それだけでなく、互いに弱者だと見られたくないというマウンティングのつばぜり合いさえ生じている」。

 

わたしにはフィリピンにあったコミュニティが懐かしい、60年代に過ごしたコミュティが懐かしい。「勉強して良い学校に行き、国家公務員、弁護士、医者になって豊かな生活を手に入れるんだ」「漫画読んだりゲームばかりしてるんじゃないぞ、バカになる」と親にプレッシャーをかけれれても、近所のおじさんが「俺は中卒で大工になったが、楽しいぞ。これは俺が立てた家なんだって自慢できるしなあ」なって違った生き方があって、そこにも豊かな人生があることを教わった。

 

「たとえ親の経験値が低くても、多様な大人に接する機会を増やし、様々な映画や音楽に接する場を与え、自分の日常とは違う世界があるという想像力を培う」事がとても大事だし、異なったコミュニティに身を置き、利害を超えた付き合いのできる人たちと接することがとても大事だと思う。生き方・豊かさ・楽しさは、多様で一つではない。失敗しても、オルターナティブな道がある。子供たちをそんな環境に置いてやる必要があるのではないでしょうか?

 

わたしは、親の「弁護士になれ」という期待に背いて、学者になりたいと思っていた。学者?とどのつまり何をしたいの?そう自分が決めたテーマで、研究したこと、調べたことを文字で世の中に知らせたい、ということだった。でも学者にならなくともそれはできる道を見つけました。大学院の試験に受からずに悩んだけれども、ああ別のやり方で同じことできるじゃないかと気づいて、なやんだことがバカらしく思えた事がありました。

 

悩みを利害を超えて考えてくれる、相談に乗ってくれる、助け合えるコミュニティさえあれば社会を恨んで無差別殺人や自殺をしなくて済むのではないだろうか。

 

でわでわ