徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

栄一 衝突する!

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本格的に寒くなりましたねえ。うちでは、週に2回はお鍋を食べていますよ。ここんところなんかきな臭い感じがして、胸が「どくどく」するのです。

 

欠かさずに観るテレビ番組の一つに、大河ドラマ『青天を衝け』という渋沢栄一の人生を描いたドラマがあります。11月21日の「栄一と千代」で海運業を独占しようと競争相手を潰すことに躍起になっている三菱の岩崎弥太郎渋沢栄一が対決を挑むシーン。時は、武蔵野学院大学の久保田哲教授が「複雑怪奇」と呼んだ『明治14年の政変』と呼ばれる伊藤博文大隈重信を政府から追放し、薩摩と長州藩出身者が主体の体制を作り上げたまさにその時。

 

目を引いたのは、岩崎弥太郎の哲学と渋沢栄一の哲学の真っ向からの衝突と同時に、孤児や貧しい人を養っていた養育院(現在 地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター)の財政をめぐる都政での渋沢と行政との対立。見事に、資本主義というものを捉えたシーンでした。

 

渋沢の哲学には、両親から受け継いだ「みんなが幸せなのが一番なんだよ」というのが根底にあります。それに対し岩崎弥太郎は、「経済には勝つ者と負ける者とがある。おまさんの言うことはは理想は高くとも所詮はおとぎ話じゃ。才覚あるものが力ずくで引っ張らんと国の進歩はないけ。」と渋沢を揶揄する。そして養育院の財政問題の会議では、「貧困は己の責任である。貧民は租税を持って救うべきではない。」「誰かが助けてくれると言う望みを持たせるから努力を怠らせることになるのだ。」と行政側は渋沢を牽制する。

 

ここには端的に資本主義の本質が描かれている。「経済には勝つ者と負ける者とがある」「貧困は己の責任である」、見事なまでに表現されている。渋沢栄一は、岩崎弥太郎の「独占=財閥」に対しては「合本=資本を出し合う」で対抗し、行政の「自助」に対しては「国が一番守らねばならぬのは人だ」と抵抗する。五代友厚も渋沢と非常に近い思想を持っていたようです。

 

2009(平成21)年に、東京都老人医療センター(元 養育院附属病院)と東京都老人総合研究所という2つの施設が経営統合して、地方独立行政法人東京都健康長寿医療センターになっています。実は、1980年台後半、わたしはエンジニアとしてこの養育院のシステム開発に関わりました。当時は、渋沢栄一と養育院との関係は全く知らなかったのです。

 

社会保障制度の始まりは、イギリスで毛織物が国家の主産業となり市場が拡大すると、いわゆる第1次エンク ロージャーによって、土地を失った農民が大量に都市部へと流入し、一気に失業者が増加したことに起因して始まります。貧民救済や貧困への対応は教会や修道院等が行っていたのですが、農民の都市部 への大量流入を受け、エリザベス1世のもとで教区(行政)を単位とした救貧活動が開始され救貧政策が 行われました。徴税による財源確保が行われて始まったのです。不安定な寄付金による財源から強制徴収による税を財源とすることで制度の安定を測ったわけです。

 

19世紀後半のイギリスにおいては、長時間労働や低賃金、不安定な就労が原因となり、人口のおよそ 30%以上が貧困層という状況を生観ました。更に、病気や加齢によって就労が困難となり、貧困化する国民も 増加しました。その結果、その状況に対応するために年金制度などの社会保障の充実が行われたのです。

 

一方、ドイツでは、社会保険として社会保障制度は発展してきました。1830年代に入り、ドイツでも産業革命が進行しはじめ、1871年ドイツ帝国が建国されましたが、帝国の敵と見なされていたカトリックに対する文化闘争や社会主義への風潮が国内統治に大きな影響を与えることとなります。 1863年、労働者が生産協同組合を結成したことで、それまでの自助努力による生活の改善という考え方 から、国家による協同組合への助成によって生活の改善を行うという、現在の社会保障に近い制度の創設 が求められ、その結果、全ドイツ労働者協会が結成されたのです。

 

当時のドイツ社会で増加しつつあった社会主義化の風潮への抑制があったようです。つま り、国家による社会保障によって、労働者階級に対して生活援助を行うことで、労働者階級の国家体制へ の不満を抑えたのであす。

 

しかし、明確な財源確保の手段がないこと、貧困救済はやはり自助努力で行うべきだとする反対の声も多く疾病保険と災害保険は、その保険料を労働者と企業で折半することとし、老年(廃疾)保険の保険料については国の全額負担としたのです。

 

イギリスもドイツも、社会保障制度の始まりには資本主義の発達による長時間労働や低賃金、不安定な就労による貧困層の創出が背景にあることがわかります。特にドイツで濃厚ですが、その状況に対する不満と社会主義化への恐れということもあったようです。

 

また、アメリカでは、世界恐慌が発生した1929年から32年にかけて、名目 GNP が44%縮小、卸売物価は40% 下落、失業率25%という激しいデフレに陥っていました。 こうした状況に対応するために、救済、復興、改革を目標としたニューディール政策が実施されたのです。この政策の中心は、積極的な国家介入による経済活動の推進と産業統制の実施にありました。1935年に社会保障法が成立し、連邦直営の老齢年金制度、州営の失業保険およびに公的扶助に 対する連邦助成を実施しました。また労使関係においては、ワーグナー法による労働者の権利を保障、1935 年には持株会社法の成立および累進課税制度を強化した税制改革が行われたのです。

 

わが国における社会保障も、その始まりは貧困問題への政策から始まりました。。わが国初の公的な救済法としては1874年(明治7年)の恤救(じゅっきゅう=憐れみ)規則があります。この規則が成立した背景としては、1871年廃藩置県により多くの士族層が失業したため、士族がそれ を不服とし反乱が起こった15こと、さらに、1872年の田畑永代売買の禁の失効による農地の売買自由化に よって、土地を失った農民の小作化や貧困化が進んだこと、また、1873年の地租改正により年貢を廃止し て土地評価額に課税する地租を導入し、事実上の増税となったことで、さらに農民の貧困化が進むことで 一揆が頻発したことなどが挙げられます。

 

もうお分かりのように、社会保障制度は資本主義の発達とそれによって生み出された貧困や困窮状態ということが背景にあり、民衆の不満が暴動や社会主義化につながることを抑制するために、資本主義の制度を一部修正して対応したというのがどうも真実のようです。つまり、この状態は自然発生的に生まれた訳でも、民衆が怠惰であるから生じた訳でもないのです。ですから、「貧困は己の責任である」というのは全く筋違いということになります。

 

では日本の現状に目を向けてみましょう。わたしの世代は、高度経済成長もバブル期も経験しています。ですから、「豊か」だった日本を知っている訳です。それとの対比で、容易に最近20年間で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から転落してきている実感、なんで給与が上がらないのだろうという感覚を持っています。でも、その時期を知らない若者はこれが普通だと思うのかもしれませんね。

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実質賃金指数の推移の国際比較

岸田首相が誕生し、「所得倍増」とか「新資本主義」とかと威勢の良いことをおっしゃっていますが、日本をどう成長させるのかの戦略・戦術もなしに、あたかも高度経済成長期が訪れるかのような幻想を振り撒き、政権についた瞬間に萎んで徐々に化けの皮が剥がれるようなことを積み上げ始めたと、わたしはみています。財務省の正当性のない緊縮政策に乗り、「身を切る改革」と叫ぶ維新の会が大阪で制覇し、政府の肝入りの委員会に「公共事業の民間への引渡派」を関与させるような世の中。強いものへの肩入れ「才覚あるものが力ずくで引っ張らんと国の進歩はない」「貧困は己の責任である。貧民は租税を持って救うべきではない」と社会保障制度や民衆の救済を犠牲対象にすることは容易に想像がつきます。

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1989年にベルリンの壁が公開し、1991年ソ連邦が崩壊しました。この時に事実上社会主義の権威が失墜したのです。日本では、安保闘争以降目立った反政府運動は起こらなくなり、民衆がよって立てる政治と繋がっていた諸団体も衰弱した状況下にあります。その結果、新本主義は恐れることを知らなくなり、社会保障制度を嫌々導入した以前の資本主義に戻りつつあります。

 

大阪で新コロナ対策の失政により自民党不審旋風が吹いているのに、結局蓋を開けてみれば自民党過半数をとるなんてことが起こってしまう。現実にはピケティが『21世紀の資本』で示しているように格差は拡大の一途です。労働分配率が下がっているのに、企業の内部留保と株価は上昇を続けています。となると心配なのは、「民衆はどこに行くのか」ということです。エマニュエル・トッドが言うように「グローバリズム自由貿易といった幻想は雲散霧消した。米国は左右に引き裂かれ、欧州は泥沼状態で、中国やロシアや東欧で全体主義の傾向が強まっている。民主主義が失速していく今、私たちが進むべき道とは?」と問わずにはいられません。

 

でわでわ