徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

秋の夜長に・・・ジョブズのように!

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季節も秋から冬へと、少しずつ変化を感じさせるようになりました。急にここに来て寒さが増しましたよねえ。秋といえば食彩の季節、きのこ、栗、秋刀魚、梨、さつま芋、などなどが思い浮かんできます。ところが、化石燃料の値上げがおさまらず、また気候のせいもあってか食材の高騰も毎日のニュースの話題になっています。

 

一方、非常事態宣言も解除され、多くの方が活発に動き出し、旅行業界もここぞとばかり新商品を提案し、秋の魅力を大いに沸き立てる提案をしています。楽しみですねえ。しかも、海外からも一般旅行客は除き、日本への入国が緩和されています。衆議院選挙も終わり、101代内閣総理大臣自民党の岸田さんが決まりました。さて、日本は良くなっていくのでしょうか?

 

さて、Appleの新たらしいMacbook Proが発表され、Appleファンにはたまらないハイグレードな製品が出来上がっていると同時に、Appleが逸れて行った道の誤りを認めたと話題になっています。今年は、スティーブ・ジョブズが逝去して10年目になりますね。10月5日ですよ。私は、Appleファンなものですから、いつもAppleの動向には関心を持っているのです。

 

この6年というもの、Appleは「MacBook Pro」の機能を削り続けてきました。その様子は、まるでどんな犠牲を払ってでも美しいデザインを追求しようとしているかのようでした。2015年には外部接続用のポートの大半を廃止し始め、その後まもなくマグネットで充電ケーブルを脱着できる「MagSafe」の機構もなくしています。そして16年には、キーボード上部に細長いタッチ式のディスプレイ「Touch Bar」を追加しました。Touch Barを追加してもMacBook Proは薄くならなかったし、開発者と消費者の心を掴むことにも失敗しましたよね。こうしてMacは数年かけて美しくはなったものの、使い勝手は悪くなったと思います。ところがAppleは、ここにきて方針を転換したのです。バタフライキーボードも評判が悪く、昔のシザーズスウィッチ構造へと完全に回帰しました。

 

米国時間10月18日に発表された新型Macbook Proは、このシリーズが間違った方向に向かっていたことを、アップルがこれまでで最も総合的に認めたかたちとなる製品といえるでしょう。

 

わたしが、人生で最初に購入したパソコンは、Macintosh SE30でした。あのモアイ像のような佇まいが美しくて、故障して使えなくなってからもインテリアのオブジェクトとして長らく飾っていました。そして、何よりも付属のキーボードのタッチの感触と音がまるで…を触れた時の感触のように心地の良いもので、いまだに比べられるキーボードがわたしにはないのです。

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SE 30



そしてiPodの発表と同時にみたiTunesのユーザーインタフェースの完成度の高さには度肝を抜かれました。「このiTunesは、クラウドを使う際のコックピットとして最適である」とあちこちで吹聴して回ったものです。

 

SE30が故障して以降手に入れたのが、Quadra900でした。しかし、このマシンにはかつてのAppleらしい『シンプルさ、美しさ』は全くありませんでした。その後、しばらくApple製品に手を出すことはありませんでしたね。つまり、スティーブ・ジョブズ不在のAppleの製品には、なんの魅力も感じなかったということになります。

 

一体ジョブズの精神の主柱はどこからきたのかと、自分なりに考えてみることがよくあります。「神は細部に宿る」といったジョブズの哲学。そして、「ハングリーであれ、愚直であれ」と言った人生訓。これらは、曹洞宗の禅僧であった乙川弘文禅僧からジョブズが学んだことのようですね。弘文禅僧は、禅僧とは思えない『破天荒』な方だったようです。『破天荒』というのは、女性関係、借金、お酒など、私たちが禅僧であればこうであるはずだと想像するのとはまるでかけ離れた方であったということです。弘文禅僧は、京都大学出のインテリで周りもその知識の素晴らしさを認めっており、永平寺に務め高僧としての地位まで持ち合わせる方だったようですが、その禅僧としての地位を飄々と超えた僧侶だったようです。弘文禅僧とともに禅堂を営まれた柳田由紀子さんは、彼を『天才・純真・卓越した洞察力』を持つ人と称されています。

 

カリフォルニアには禅堂がいくつもあり、禅僧も何人もいたはずなのに、禅僧としては『はちゃめちゃ』な乙川弘文禅僧になぜ惹かれたのだろうかと考えてしまう。弘文禅僧の最後は、スイスに移りすんだ家の庭の池で小さな孫娘と溺死。仲間の禅僧の中には、悲しくもないと思った人も少なからずいたそうです。なぜなら、周りの彼をよく知る禅僧たちは、弘文禅僧の禅僧らしからぬ『破天荒』ぶりに愛想を尽かしていたのでしょう。ところが、ジョブズは彼の訃報を聞いて啜り泣いていたという。

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一言付け加えなければいけないのは、弘文禅僧を慕う人は多く、特に非常に女性にもてたらしい。小柄でハンサムでもないのに、と柳田由紀子さんは言う。わたしは、ジョブズだけでなく、人が慕うリーダーの重要な素養がそこに見られるように思うのです。自分たちのリーダーは自分達と同じ地平に立っている、それが支えてあげたいという共感を呼ぶ

 

PRESIDENT Onlineで『宿無し弘文』の著者である柳田由紀子さんは、こうおっしゃています。

 

「京大時代の日記とか修論にしても、非常に生真面目なものなんですよ。永平寺時代の仲間に聞いても生真面目なんです。しかも一生独身を通すと誓っている人ですから。ところがアメリカに派遣された弘文は、結婚して子供をつくり、酒を飲んでは家族に暴力を振るうようになる。一体、弘文に何が起こったのか。ヒッピーとか、フリーセックスとか、人間の本能に忠実に生きる『生命』っていうものを感じたんだと思うんです。だから衝撃も受けた」

「私的にはね、あまりにもきちっとした人だと自分ではついていかれない。泥中の蓮っていうのはこういう方のためにある言葉でしょうね。人を助けるために、いてもたってもいられない。やっぱり弘文が崩れたからこそ、みんながまたついていった」

ジョブズは生後間もなく父母から捨てられ養子に出されるという、まさに泥の池に生を受けた人間だった。そんなジョブズだからこそ「泥中の蓮」を求めたのではないか。」

 

 

弘文禅僧のような人が隣にいたらとても困るかもしれないとも、『宿無し弘文』を読むとわかってくる。弘文禅僧の甥っ子の逸話を見ても、カリフォルニアの弘文禅僧を訪れると約束していたのに、訪ねてみれば留守で、なんとハワイに行っていたらしい。こんなことがしょっちゅうあったそうです。また、女性関係も僧侶らしからぬ、まあそれだけモテたんでしょうけどね。およそ私たちが想像する、いや実際にいる僧侶はもっときちんとしているはず。ところが、アメリカに移った弘文禅僧はそうではなかったのです。

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一方、ジョブズはといえば、Appleの古い社員は特にジョブズとエレベータに一緒に乗ってはいけないと言っていたほど、また、製品開発時の関係者への要求も時には理不尽な、やはり厄介な人物。この厄介な人物に24時間いつでも扉を開けて受け入れたのが、この『はちゃめちゃ』な弘文禅僧だったのです。

 

わたしは、以前このブログで【『器』=「こころざし」と「やさしい心根」、そして「破天荒」】というのを書きました。この『器』とは、リーダーであったり師と言える存在のことを言っています。そして付け加えるなら、この弘文禅僧のように自分達と同じ地平に立っていると感じられること。子供たちや座った老人と話すときに、天皇や皇后はしゃがんで同じ目線で話しますよね。その目線をいつも感じるということです。

 

自分自身を振り返ってみると、わたしは、同窓会に呼ばれたこともないし、親友と呼べる関係もありません。親友とは、悩みを打ち明けられた時に自己犠牲を強いてもなんとかしたいと思える人間関係のことで、単に知っているという関係ではありません。わたしは、自分のやりたいことに向かってとにかく突っ走ってきました。「それはどうかと思うから考え直してみたら」とか「こうすべきじゃあないのかい」と戒めてくれる存在を作ってこなかったのです。

 

社会学者の宮台真司さんによると、「現在の日本人には仲間という存在がいない」そのことは「自分を外側から客観的に見つめる機会を失うことに繋がっている」という。つまり「自分の損得を超えた視座からものを考える」ことが失われているということになるのです。現代の若者は「友達=悩みを相談できる存在」をほとんど持っていない、一般的にと「友達」と言っているのは「知り合い」のことだそうです。ましてや「親友=悩みを打ち明けられたら自己犠牲を厭わず人肌脱ごうと思える存在」など一人も持っていないと、宮台さんはいう。

 

それには頷けることがあります。少なくとも大学へ入学するまで、わたしには「親友」も「友達」もいました。大学に入って、まず驚いたのはせっかく入学し学費も納めたのに授業にほとんど出てこない学生がいることでした。何をしているだんろうか?どうやら学費と生活費を稼ぐためにたくさんアルバイトをしているようなのです。「じゃあ何のために学費を払っているの?」と考えてしまいませんか?ちなみにわたしの通った大学は、当時日本で一番学費の安い大学で、わたしの学年は年間14万4千円で他の国公立大学に一年遅れで足並みを合わせていたんです。つまり月額で1万2千円ですよ。

 

わたしが学生自治会の執行部に飛び込み、2回生の時に委員長になった理由は、この理不尽さが大きな要因でした。そこからだんだんと社会問題、政治問題、に覚醒していったのです。ところが、同級生たちは社会問題、政治問題、を話すことを避けていました。学費や奨学金についてもです、クラスにはその重荷のためにまともに授業を受けられらない「仲間」がいるのに。もちろん、ノートをコピーさせてやったりと言ったことではみんな助けています。がしかし、それでは根本問題を解決できないのに。

 

わたしの目には、ほとんどの学生は「卒業証書を手に入れて就職を有利にするため」に大学に来ているんだと見えました。わたしは大学を選ぶ際に「誰から何を学ぶのか?」を大学教授を父親にもつ友人がいましたので、そのお父さんに色々と相談をして決めまたという経緯があります。わたしの父親はわたしが法律家になることを望んでいましたが、何になるかは白紙にして、まず「誰から何を学ぶのか?」を考えて入学しましたし、それに忠実に大学生活を送ったつもりです。特に、法学や政治学を専攻していれば、社会にある矛盾には容易に気づきます。大学院へ進学し研究者になる学生も含めて、現実に目の前にある社会問題や政治問題を「知識」として取り入れるか、就職試験や司法試験の解答を手に入れるために時間を費やすか、だったのでしょう。

 

となれば、わたしのような社会問題や政治問題を熱く語り、解決のために行動しようとする人間は、近づき難い異星人だったのでしょうね。彼らにとってはタブーなんでしょう。わたしは、イデオロギーを問題にしたことはありません。難しくいうと、学生自治会のような大衆団体と何々党とい政治団体とは異なるからです。政治団体には通常綱領という理念や方針がありそれに同意した者だけが加盟できるわけですが、大衆団体には例えば学生自治会には大学に入学した者全てが参加する団体です。学生にとって解決しなければいけない権利義務そして課題を討議し、承認されたことに関して行動するわけです。しかし、それらは社会問題や政治問題と独立して存在していないわけで、学費の値上げも学生には経済的な問題ですが、中教審答伸(中央教育審議会答申)によって定められた極めて政治問題なのです。

 

それらが理不尽か不当かを判断するのに、イデオロギーは関係ありません。左や右や、共産主義新自由主義とは関わりありません。宮台さんに言わせると「まともかクズか」の問題なんです。自分は学費を親が払ってくれるので自分の問題ではない、のではなくて、「自分の損得を超えた視座からものを考える」と学費を払うためにバイトをし授業に出られない学生・仲間がいることを慮ることなんです。その結果、値上げやむなしなのか値上げ反対なのか、答えは一緒ではないでしょうが、議論はできるわけですよ。

 

このような経験の中で、わたしは自分を「閉ざされた」中に入って突っ走ってきたのかもしれません。わたしは、3度妻が変わりました。ようやく7年くらい前から、妻と娘が「自己犠牲を厭わず人肌脱ごうと思える」存在になりました。本当に恥ずかしいのですが、そう告白せざるを得ません。その結果、自分を「開いて」、「自分の損得を超えた視座からものを考える」ことの大切さを再確認したんです。そんな時、ジョブズにとっての弘文禅僧のような存在が欲しいなぁて思うのですよ。そのぜいで、歴史上の人物、学生時代には偉大だと思える人の伝記、スペイン・ファシズムレジスタンスであったドロレス・イバルリ「奴らを通すな」、日系米人カール・ヨネダ「がんばって」、日系米人でスペイン市民戦争の義勇軍に参加したジャック白井「オリーブの墓標」、ロシア革命のルポ「世界を揺るがした十日間」の著者ジョン・リード、キューバ革命を達成したエ・チェ・ゲバラアインシュタインガンジーパブロ・ピカソチェリストパブロ・カザルスキング牧師足尾鉱毒事件の田中正造、フォークシンガーのピート・シーガー、沖縄米軍基地反対で米国に恐れられた国会議員だった瀬長亀次郎など、を読んだものです。全て「理不尽さ」や「不当さ」と戦った人々です。

 

これって、ジョブズの「Think Different」のCMを思い出しませんか?このCMは、1997年でしたよねえ。わたしの大学入学は1980年ですから、このCMの前に読んでいたことになります。生い立ちもジョブズと少し似ているところがあります。よけいにジョブズに共感を持つのは、わたしはジョブズの足元にも全く及ばない人生ですが、似たものに共感を持つのですよ。

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別に何の結論もないのですが、秋の夜長にそんなことを考える今日この頃なんです。

 

でわでわ