徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

『器』=「こころざし」と「やさしい心根」、そして「破天荒」

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菅総理自民党総裁選挙の立候補を断念し、4人の候補が総裁の席を争って動き始めました。わたしは、どの方にも全く興味が引かれ得ません。わたしには、どの方も一国のトップの『器』をお持ちのようにはみえないからです。どの方もあまりにも小さい『器』にしかみえません。会見に臨むと、それぞれの方が「聞き心地の良い」ことを抽象的な言葉で、どちらともとれそうな言葉で語られるけれども、いっこうに心に刺さらないのです。

 

そんな「聞き心地の良い」ことばには、欺され続けてきていますからね。信じる気になかなかなれないのが本音です。

        

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一方野党はどうかというと、やはり自民党のこき下ろしに終始しているようにみえてしまう。これはマスメディアの問題なのでしょうが、そのような点が国会討論や会見のシーンで主に露出させられてしまっているように思えるのです。

 

もちろんわたしは、政治学者でも行政学者でもマスメディアでもないし、政治家でも行政官僚でもありません。ですから、政治家や政治に関してはみえていない部分がほとんどでしょう。しかし、ほとんどの国民はわたしと同じだと思います。まあ、党員だったり政治家の後援会員だったりする人は、情報の質も量もわたしとは圧倒的に異なるのかもしれませんが。しかし残念ながらその情報は、圧倒的なバイアスにさらされていることは見過ごしてはならないと思います。

 

今回の自民党総裁選で、唯一興味を持ってみているられるのは、若手議員の「脱」派閥の動きです。さて、それが下剋上にまで発展するどうかは期待できないにしても、表面化してきたことには見守るべき価値はあるのではないでしょうか。この動きの背後には、全ての政治家が「小粒」つまり指導者として党員を率いるだけの『器』ではないことの結果のような気がするのです。2回目の長州征討で失敗した徳川幕府のようなものでしょうか。

 

わたしは思うんです。きっと自民党内でも、ジャンダーギャップやエージギャップがくすぶっていて、限界に来ているのではないだろうかと。「派閥」というのはまさにそのギャップを醸成してきた男性の年配の方々を象徴するものとして使われており、「派閥」のトップを形成している年配者たちへの忖度も限界に来ているということのように思えるのです。まさに、幕末の徳川政権の様相ではないでしょうか。

 

ですから、選択的夫婦別姓などのように、まさにジャンダーギャップとエイジギャップの相違がまともに意見として出てくる個別の問題に関しては、野田候補と共同戦線を張ることが出来る議員や各党党員は沢山いるのではないでしょうか。党や派閥が一体何の意味があるのだろうかと思ってしまう。意味があるとすれば、現状では世の中にWellbeingを創出する足かせになっているだけだと思う。

 

わたし自身、別姓結婚の経験者なので特にそのように感じるのです。妻(別れてしまいましたが)は、非常にフェミニンでな女性で別姓結婚を望んでいました。わたしの大学の後輩で平和や人権をともに勉強してきた同士でもあったのに、いざ現実に直面するとなるとあれこれ考え悩みました。別姓でいたいという気持ちは十分理解できる。ところが、現状の法制度や行政制度では別姓にすることで獲得できない政府のサポートがあったり、行政上の位置づけは「未届の夫」と書かれ、ものすごい違和感を感じることになるからです。しかも、親たちがどのように受け止めるのだろうと、いくつも課題が出てくることが想像されたんです。

 

これが、まさにジャンダーギャップとエイジギャップ、つまり過去の亡霊のなせる技なんですよ。人権や差別を頭では理解していても、自分が当事者になるとなれば簡単ではないのですね。ゾンビは、現れ続けるのです。

 

わたしは、ITに関する評論も書いていますが、イノベーションやDX(デジタルトランスフォーメーション)をなぜ実践できないかという問題と同じ原因なんです。変革とみられることを創出しようとすると、必ずジャンダーギャップとエイジギャップがゾンビのように蘇り邪魔をし、時間を止めてしまうわけです。そのゾンビマインドが、過去の心地よさや成功体験に裏付けられている場合は、なおのことやっかいな代物となるのです。

 

しかも、派閥の年配の方々が最も不得意なのは「多様性」を認めて「調和ある政策」を産み出すことにあります。「多様性」のない画一的なものでは、所詮死角を持ち続ける。「多様性」は、その死角を見つけ出すためには非常に重要な機能を発揮するのです。

 

ロシア革命を率いたボルシェビッキ党のレーニンをごぞんじでしょうか?信じられないかもしれませんが、レーニンは、執行部の半数は反対の立場のものを入れるように書き残しています。残念ながらスターリンは全く逆のことを行いました。レーニンも妻のクループスカヤも、スターリンを中枢に置くことには難色を示していたんですね。

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元来「多様性」の一機能を期待されるのが、メディアであるのですが。果たしそうなっているだろうか?戦前のメディアを振り返ってみてください。紙面を売るために、競って戦争をあおり立てたのではないでしょうか?朝日新聞も読売新聞もです。当時は、企業(集団)としてのメディアしかなかった。今は、個人がメディアになり得る時代だ。ということは、若手の名もまだ売れていない議員たちでも、いつでも政策や意見の発信が可能だということですよ。

 

優先させるべきは窮屈で狭い党や派閥なのか、それとも民なのか、と問うてほしいものです。「小異を捨て大同に就く」という言葉を思い出して欲しいものです。

 

さて、わたしのように一般国民は果たしてマニフェストや政治家個人の政策をどれほど深く熟慮した上で、選挙に臨んでいるのだろうか?そして、なぜ若者の投票率が低いのか?と、ついつい考えてしまう。京都市選挙管理委員会のサイトには以下のような記述があります。

 

平成26年(2014年)の衆議院議員総選挙における年代別投票率を見ると,20歳代の投票率が32.58%であったのに対して,60歳代は68.28%と2倍以上の差がありました。また,平成26年10月1日現在の人口推計を見ると,20歳代はおよそ1,300万人であったのに対して,60歳代はおよそ1,800万人と1.4倍ほどの差があります。これらを計算してみると,20歳代の投票数はおよそ420万票,60歳代の投票数はおよそ1,240万票となり,票数にするとその差はおよそ3倍となります。若者の投票率が低くなると,若者の声は政治に届きにくくなってしまいます。その結果,若者に向けた政策が実現しにくくなったり,実現するのに時間を要する可能性があります。

 

まさにその通り!しかし、なぜ若者が選挙に行かないのかをもう少し真剣に考えた方が良い。若者の投票率が上の世代に比べて低いというのは、日本だけで起こっている現象ではないのです。いまや、若者を選挙に動員できる政治家は、世界をみても見当たらない。様々な研究でいろいろな分析が上がっている。例えば投票(不在投票や地元でない地域からの投票など)の仕組みが複雑で面倒くさいということもあるだろう。彼らの住処はスマホなのかもしれない。

 

アメリカで選挙に行くように大勢の学生に働きかけていた20歳の学生は、「住んでいた小さい町では、政治というのはワシントンでやっていることで、ワシントンの政治家がどう投票しても自分の生活には関係ないと、そういう感じだった。政治は自分たちを裏切ったので、政治に関わるのは面倒すぎるからごめんだという気持ちが強かった」と述べている。若者は、学校で選挙や政治についてどれほど学ぶ機会があっただろうかを考えてみてください。「投票は義務だろう」では始まらない。

 

生活に学業に忙しく追われており、特にホームタウンを離れて生活するものにとって、政治家の議論は縁遠いものに感じられているのではないだろうか?ここでも、ジャンダーギャップとエイジギャップのゾンビは首をもたげる。これは、若手政治家だけではなく、わたしたち一般国民のなかでも同じ現象がおこっているといえないだろうか?

 

投票率が低いのは、政治家だけに責めを負わせるつもりはない。しかし、多くの投票が期待されるジャンダーや世代に視点が向くのは自然のことだが、ますます若者を遠ざける結果にしかつながらない。YoutubeTwitterでは、政治家の揚げ足をとりコテンパンに戯評するコンテンツが炎上したりします。でも、意図は分かりませんが、逆効果ではないだろうか?こんなものに一時的に「そうだそうだ」と相づちは打っても、やがて疲れて飽きて政治がつまらないものと感じるだけの効果しかないと思う。

 

きっとそのようなコンテンツを生成し流布できる人は、多くの知識をお持ちの方々だと思います。ならば、それをみてみんなが「政治を自分事」として捉えられるコンテンツを作り出すために生かし、知恵を絞っていただきたいと思うのです。

 

政策の善し悪しを充分に理解し得ていなくとも、演説やポスター、テレビ出演などを通して政治家の態度を見さえすれば、その『器』を少なくともわたしは感じることが出来きます。多くの方がそうではないかと思うのです。団塊の世代を筆頭に司馬遼太郎の「竜馬はゆく」を読んで主人公の「坂本竜馬(龍馬)」に傾倒し感動した方は沢山いらっしゃるでしょう。司馬遼太郎の作品は多くがNHK大河ドラマになりました。すくなくともわたしは、司馬遼太郎の作品は活字で読んだことはありません。

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当然それらは「龍馬」を「竜馬」と表記されてるように、様々な資料を読まれ、あるテーマの古書籍が神田の古書店街からことごとくなくなるといわれたほど読まれ分析された事々を背景にして描かれてはいるものの、司馬独自のフィクションです。しかし、累計9,800万部(2016年時点)のダントツの発行部数を誇るのが司馬作品です。

 

わたしの独りよがりの思いかもしれませんが、そこにわれわれの世代の日本人が求めるリーダー像があると思うのです。特に長らく続いた「窮屈で不合理な時代」を刷新した維新の志士たちにそれを見てとるのです。維新、特に日露戦争以前の幕末からの時代です。加藤周一氏によると「外に膨張主義的ではなく、日本の独立をめざした」時代、尊皇攘夷ではなく「日本の独立」を一身にめざしたのが維新であったというのです。「この国のかたち」を必死に探り、多くの失策もあったが短期間のうちに世界史に例を見ない変革を成し遂げていく時代。経営学者の米倉誠一郎氏もこの時代のイノベーターの姿を描き出されています。

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                             武市半平太

わたしなりに、日本人が好むリーダー像を考察した、いや、わたし自身が求めるリーダー像を表現してみます。NHK大河ドラマの『龍馬伝』の竜馬の台詞に、「私心のあるのはこころざしではない」というのがあります。政治家のなかには「こころざし」を一生懸命に伝えようとする方もいらっしゃいます。が、しかし「私心」が見え隠れするのです。「公につくし」、身を捧げてこそ「公僕」と言われる所以があります。「公」とは、もちろん主権者である国民であり、弱きを助け強きを説得することだと思います。

 

その一人の典型として、足尾鉱毒事件のときに住民の被害をなくし住民を助けるために、私財も身なりもかまわず奔走した政治家の田中正造を思い浮かべます。彼には、不正や不合理に苦しむ住民を救うという「私心のないこころざし」と住民を思う「やさしい心根」、そして「破天荒」があった。

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また、「龍馬伝」の坂本龍馬は、全く「私心のないこころざし」の人であり、真っ当に生きる人を尊敬し、友や家族を思い、いつも人の良い部分を見つけては褒め、対等の目線で誰とでも気軽にはなし笑う人物としてえがかれている。しかも同じ方向を向いている西郷吉之助、木戸孝允、そして破天荒の中の破天荒の高杉晋作たちでも思いつかない策をやってのける破天荒ぶり。やはり「私心のないこころざし」と住民を思う「やさしい心根」、そして「破天荒」なリーダーとしてえがかれている。「西郷どん」の西郷吉之助も全く同様ではないでしょうか。

 

 

つまり、、日本人のどこかに「私心のないこころざし」と住民(友や妻や家族といってもよい)を思う「やさしい心根」、そして「破天荒」が、求めるリーダー像としてあるのではないかと思う。わたしもご多分に漏れずそれをリーダー像として持っているのです。まさにこれこそが『器』なのです。「私心のないこころざし」と住民を思う「やさしい心根」、そして「破天荒」のどれが欠けてもリーダーの『器』にあらずと思うのです。

 

でわでわ