徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

わたしを覚醒させた書 ー 『人新世の「資本論」』

f:id:naophone008:20210613092255j:plain

フィリピンのルソン島に、タガイタイという阿蘇山カルデラのような所がある。ここにスターバックスがあって、素晴らしい眺望の中でコーヒーを楽しむことができる。わたしは、ここが大好きで、日本からの訪問者があれば必ずお連れしたものです。思索と想像に耽るにはもってこいの場所。

 

YouTubeで知って急いで購入した、斎藤幸平さんの書かれた『人新世の「資本論」』という書物があります。彼がわたしの通った大学で教鞭をとっている准教授だという親近感も加わって、またマルクス主義者であるというシンパシーも手伝って、食らいついたわけです。

              f:id:naophone008:20210613092202j:plain

思い起こせば、高校3年の頃でした。思索に耽ったり、詩を書いたりすることが好きでした。共通一次試験の最初の世代だったのですが、「小論文」という試験が2次試験に導入された頃です。決して「小論文」対策というわけではないのですが、太宰治織田作之助中原中也加藤周一三木清、などの本をよく読んでいました。漠然と哲学科に進みたいなあと思っていました。まあ、実際には、わたしを法律家にしたいという父に負けて法学部を受験したのですが。

 

如何せん1校のみを受験したため、それが不合格となり、残念ながら浪人することになりました。高校3年生の時、実家は太秦映画村のすぐそばだったのですが、父が京都の鞍馬の入り口近くにある二軒茶屋(家の裏を京福電鉄が走っていました)というところにもう一軒家を買ったので、そこから塾(樫の実学園:京都市上賀茂)へ通うようになりました。貴船川の辺りに降りて、本を読むのが日課でした。

 

稲垣真美さんという岩波新書ブッダを背負いて街頭へ』や『兵役を拒否した日本人』などを書かれたノンフィクション作家が、通っていた塾の小論文の講師として赴任されました。その頃、親にねだって京都大学で教鞭ととった哲学者の『西田幾多郎全集』を買い揃えてもらい、先生とよく議論したのを覚えています。

 

法学部へ進学したのですが、そそくさと法律家は向かないと思い方向転換。法解釈学がつまらなくて、「なぜその法律がその時できたのか?今でも有効なのか?」というテーマに関心があり、法社会学や国法学を専門としたんです。大学には、甲斐道太郎先生という著名な民法学者で、法社会学の分野でも名の通った先生が2年に一回法社会学ゼミを開かれていましたので、参加することにしました。国法学は、ドイツの憲法理論を研究されている栗城教授でした。

 

なんとゼミ生はわたし一人、先生も「おおう、久しぶりのゼミ生だよ」とおっしゃってました。多くの学生は就職を意識して民法行政法のゼミに行くんですねえ。わたしは異端児というわけです。

 

テキストは、藤田勇先生の『法と経済の一般理論』、つまり「法のジェネシス論」(法の生誕の根拠)というマルクス主義に基づいた難解な書物でした。参加したサークルも「人権法律研究会」という冤罪事件や法曹の問題や矛盾を研究するところで、社会科学というマルクス主義を学ぶ例会もあり、マルクス主義法学を学間キュの中にいたというわけです。

            f:id:naophone008:20210613092214j:plain

ということで、わたしは、すっかりマルクス主義の洗礼を受け、学生運動にも飛び込む羽目になりました。法学部には、唯一全学部生の中から選出された執行部や代議員が率いる自治会があり、私は委員長になってしまいました。労働組合釜ヶ崎の日雇い労働者に連帯して、でもにもよく参加しました。

 

また、ヘルメットを被った兄ちゃんたち(革マル派中核派第四インターなど)や共産党系青年組織の民青などともぶつかりながらやってましたねえ。わたしから見れば、自称「マルクス主義者」で歪んだマルクスの理解者にすぎませんでしたけどね。

 

こんなわたしは、長らくマルクス主義を堅持してきたのですが、いくつか疑問も持っていました。でも、ソ連崩壊後、マルクスを語る当時の友人も教授もめっきり少なくなり、以来、深く考えることがほぼなくなってしまったわけです。

 

そこにこの書『人新世の「資本論」』が登場したわけです。しかも、著者の斉藤幸平しは、わたしがマルクス主義の洗礼を受けた大阪市立大学の准教授ですよ。読まないわけにはいかないでしょう!

 

驚いたのは、ソ連邦の崩壊とベルリンの壁崩壊後、マルクス主義がまるでタブーのようなり、東大ではマルクス主義の教官は雇わないとか、全く学問の自由を無視したようなイデオロギーで差別するようなことまで起こっている中で、20万部以上というこの種の本としては特大ホームランを打ったことです。

 

ピケティの『21世紀の資本』出版以降、斎藤幸平さんの『大洪水の前に』あたりから俄かにマルクス主義系の書物が世に出てくるようになったんですよね。特にこの『人新世の「資本論」』は、「はじめに」で「SDGsは大衆のアヘンである」という、衝撃的な言葉から始まっているのには、驚嘆させられました。マルクスが言った、「それ(宗教)は民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序論』)をもじったものでしょうが。

             f:id:naophone008:20210613094148j:plain

わたしにとって、マルクスと環境問題とは、即座に結びつかなかった。斎藤幸平さんは、マルクスの晩年の研究が、環境問題に割かれていることやコミュニズムの新たな視点に注がれているとしていることは、新鮮だった。学生時代に齧り立いたマルスクスでは、環境問題など直接的になは出てこない。しかも彼は、現在34歳という青年!

         f:id:naophone008:20210613095638j:plain

そういえば色々なデータや調査を見ていると、最近、アメリカでも政治家が堂々と社会主義者を標榜し若者がそれを支持する、日本では起業する若者や就活している若者に社会貢献や豊かさの新しい感じ方などが見て撮れるんですよね。

 

これは、政治家や資本家のやっていることの結果が、資本主義の末期症状に来ていることの証拠なのでしょうね。そのアンチテーゼとしての運動(movement)が社会矛盾にセンシティブな若者を通じて表層に出てきているということなのでしょうか?

 

さまざまなアンケートの国際比較では、日本の若者の特徴として「自信がない」ということが表れています。だから、かつてのようにデモンストレーションのような形にならないだけなのでしょう。内閣府は2019年6月18日、令和元年(2019年)版「子ども・若者白書」を公表し、「日本の若者の「自己肯定感」は諸外国の若者に比べて低く、欧米など6か国との比較でもっとも低かった。」としています。

f:id:naophone008:20210613100150j:plain

この点については、機会があれば深掘りしてみたいですねえ。でも、わたしは決して暗くなりはしません。きっと若者が、良い未来を築く行動に出る時がくろとコーヒーを飲みながら想像しています。

 

でわでわ