徒然なるしらべにのって!

あの地平線 輝くのは どこかに君を 隠しているから

一冊の本とCoffee、そして音楽

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京都 喫茶 「築地」

幼稚園の頃、版画の自画像で入選し、京都市の展示会に出展していただいたことがある。その時に京都ノートルダム小学校の先生にえらく褒めてもらって、「ノートルダムへきっと入学しなさいよ」とさそわれたことがありました。父親は、「勉強するのに高いお金を払わなくとも、自分で努力すればいいんだ!」と相手にしてくれなかったのを覚えている。

 

絵を描くことが好きで、当時のテレビ漫画にでてくる主人公や主人公が乗っていた未来の乗り物なんかをよく描いていました。家が小さかったので、自転車やバイクを置くためのスペースに半畳ほどの板間を作ってもらって、そこにお下がりの机と椅子を置いて絵を描いたり勉強したりしていました。以来、小さく隔絶された空間で、本を読んだり絵を描いたりする習慣が自然と身についたのです。

 

小学校の5年生頃でしたか、いきなり父が「家を造るぞ!」と青写真に描かれた図面をみせてくれました。当時の家族構成は、父・母・弟2人・父方のお婆さん・父方の叔父2人と、私を入れて合計8人の大所帯でした。100坪近い土地に2世帯住宅を注文建築で建てたんです。もちろん広くなって喜ぶことも多かったし、念願のシェパードも飼えることになって嬉しかったのは間違いないですね。でも、残念なことが一つ、小さく隔絶された空間で一人で何かに打ち込む場所を失ってしまったのです。

 

広い応接間ができ、そこに父はチーク材で造られたピアノを買い入れました。さてどうするつもりかと思っていたら、「おまえピアノやれ!」といわれ、「はっ?」でした。小学校3年生から剣道を習い始めていて、それも父の命令みたいなものでしたし、しかも剣道とピアノってちぐはぐな気がして気が進みませんでした。まあでも、ピアノ買っちゃったわけだし、仕方なく始めました。

 

美術と同様音楽も嫌いではなかったので、自宅まで来てくれる先生について練習を始めたんです。ついでに父の高価なステレオでクラッシック音楽を聴くようになりました。でかいスピーカーでしたのでド迫力のサウンドが出ました。それでドボルザークの「新世界」なんかをかけるとすごい迫力でした。

 

2年間ピアノ習って「ソナチネ」を始めた頃、なぜかクラシック音楽から別のジャンルの音楽に触れてみたいと思うようになり、ピアノを止めギターを勉強するようになりました。剣道の先輩の家で聞かせてもらった、S&G(サイモンとガーファンクル)の「スカボロフェアー」や「明日に架ける橋」が強烈な印象だったこともあって、S&Gをコピーしようと一生懸命練習したものです。ポール・サイモンのギターテクニックはすごい、はい。

 

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謡曲を除けば、かぐや姫井上陽水などのフォークソング、ツエッペリンやディープパープルなどのハードロック、ピンクフロイドやE.L.P.などのプログレッシブがはやっていて、学生がバンドを造って文化祭にでたりしていました。わたしもそのひとりでした。

 

高校3年のときでした。京都産業大学から少し登っていった鞍馬山の入り口付近に、二軒茶屋というところがあり、父がそこに新築の家を買ったんです。のどかな場所で、家の裏には叡山電鉄が走っており、門の上にちょこんと猿が座っているなんてこともある場所でした。お婆さんと叔父さん、そしてわたしの3人がそこへ引っ越したんです。休みの日には、バイクで鞍馬の方へ出かけ、川床でぼたん鍋を食べるのが有名な貴船川が流れており、その川辺にすわって小説を読むのが習慣になり、家では一人部屋になったため思索にふけることも多くなり、詩などを書いたりすることもありました。

 

大学に入ると突然社会の矛盾に疑問を持つようになり、マルクスレーニンそしてチェ・ゲバラに影響を受け学生運動に飛び込みました。ウッディ・ガスリーやピート・シーガーなどのプロテストソングなんかを聴いていろいろ考えに耽ったりすることも多くなりました。

 

京都立命館大学高野悦子さんの手記「二十歳の原点」をご存知でしょうか?「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という一説。自殺をしてしまった高野さんが、1969年1月2日(大学2年)から同年6月22日(大学3年)までの、立命館大学での学生生活を中心に書いた日記。理想の自己像と現実の自分の姿とのギャップ、青年期特有の悩みや、生と死の間で揺れ動く心、鋭い感性によって書かれた自作のなどが綴られているwikipediaより)。

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この本に「シアンクレール」という喫茶店が出てくる。「思案に暮れる」をフランス語風にカタカナにしたのが店の名前の由来だそうです。いわゆるジャズ喫茶で、今はもうないのですが。わたしは、ここを訪れてはじめてジャズという音楽に興味を持ちました。

 

ディジー・ガレスピー、チャーリ・パーカー、チック・コリアセロニアス・モンクビル・エヴァンスなどなど、下宿に40万円もつぎ込んでかったオーディオでヘッドフォンを架けて何度も聴きました。でも、ジャズ喫茶にはもっと素晴らしいオーディオがあります。ですから、たまに出かけては素晴らしい音色を楽しんだものです。

 

京都にはブルーノートという老舗も有り、ジャズ喫茶を訪れては一杯のコーヒーで何曲も何曲も聴いていたのでした。わたしは、ジャズを聴くとなぜかいろいろな思索をする癖があるのか、自分の世界を創造してしまうのですよね。

 

チック・コリアの『リターン・トゥ・フォーエヴァー(Return to Forever)』を聴いたときはショックでした。「なんなんだこれは?」と音楽観が揺さぶられたのを覚えています。わたしの脳内に、見たこともない色合いの世界へ手を引っ張って連れて行かれ最後は美しい未来への扉が開く、そんなイメージを奏でるのです。

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たしかに、クラシックなジャズではないですよね。アコースティックなピアノではなく、電子キーボードを使っていることやフルートの使い方も影響しているのだろうなあ。

 

京都には、クラッシックを聴かせてくれる名曲喫茶も、フランソワーズ、築地、ミューズなど四条河原町木屋町界隈には独特の空間があり、よく通ったものです。そして、関西ブルースのレジェンド憂歌団が活躍した日本最古のライブハウスといわれる「拾得[じっとく]」(上京区)、「磔磔[たくたく]」(下京区)、そしてアンゴラのメッカ京大西部講堂なんかもある。

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ジャズやブルースにフュージョンを聴き始めた頃から、わたしの聴く音楽のジャンルは一挙に広がった。ドック・ワトソンやビルモンローらのブルーグラスロシア革命を追った「世界を揺るがした10日間」の著者ジョン・リードを描いた映画「レッズ」を見て影響を受けたラグタイムボブ・マーリーレゲー、アフリカの部族音楽などなど。

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一方、クラッシックもどんどん深くなっていった。というのも大学時代の恋人は、京都でも有名な高校オーケストラのチェロ奏者だったために、いろいろなレコードを教えてもらいました。「ブラームス交響曲の四番、これを聴くならカルロス・クライバー指揮に限る」と彼女は言い張るのです。

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「えっ?何が違うの?」と訊くと、「音と音の切れ目に注目してみて」というのです。何度か聴いて、他と比べてみて確かに違いを感じたんです。つまり、切れ目が切れているのではなくとてつもない深みに落ち込み、次の音が始まるまでにスーッとの上ってくる感じがはっきりとすのですよ。いや、驚きました。そうやって聴くことが出来れば、「この曲はこの指揮者で、このオケ」って好みが決まるでしょ。いやー鍛えられました。それ以来、クラッシックも沢山聴きましたよ。

 

こうして、ときどきのシチュエーションや感情のありかによって、聴くジャンルや曲が決まっていくようになりました。素晴らしいスピーカーが置かれたジャズ喫茶や名曲喫茶で音楽を聴く習慣はなくなりません。地方へ出かけても、かならず探し当てて足を運んだものです。

 

しかし、思索が伴うときは決まってジャズ、ブルース、クラッシックを聴く。なぜかなあ?どうも脳裏に深い世界を創造してくれるのは、それらのジャンルの曲だからだろうか?自分でもはっきりとした理由は見当たりません。そしておまけに必ずコーヒーをすする。しかもミルク入りのコーヒー。名曲喫茶の築地では、ウィンナーコーヒーという泡立てた生クリームが浮かぶコーヒーが有名で、必ずそれを注文する。

 

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年齢と時代が音楽や曲の好みを変えてきた。しかし、とうとうこの年齢になって、新たなものを受け入れられなくなってしまった気がする。過去の部屋に閉じこもったままだ。でも、一冊の本と一杯のコーヒー、そしてジャズ、ブルース、クラッシック。「小さく隔絶された空間で何かに打ち込む場所」は、物理的な世界から脳裏に創造された世界へと変わった。

 

でわでわ

今後のコンピューティングを考えてみるー今は昔ときたもんだ!(1)

 

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「TOKYO2020」オリンピックも閉幕し、お盆の季節となりました。パンデミックといえども政府の期待に反して人出は増えそうな予感です。仕方がないですね、政府の国民を小馬鹿にしたような戯言には、付き合ってられないということでしょうか?

 

2004年に、わたしは「シンクライアント=ディスクエレスPC」端末を提供する企業に役員として迎え入れられました。当時は韓国製の製品から台湾製へと製品ラインを変えた時期でした。製造工場はAppleの製品なんかも作っている深圳にあるフォックスコンだったのです。

 

わたしの基本となる任務は、市場計画でした。設立してから2年以上になるのですが、わたしが入社した時はほとんど顧客はありませんでした。強豪企業は、NEC松下電工インフォメーションシステムズ、そしてワイズなどが知られていましたが、まだ浸透しているとは言い難い状況でした。

 

2005年になってマイクロソフトWindowsXPエンベデッド版OSを出すというアナウンスがありました。それまでWindwsCEを使うか独自OSを使うかの選択だったのですが、ビジネスでスタンダードとして使われているWIndowsXPと同じインタフェースが提供されるというニュースに興奮したのを覚えています。さらに、政府は度重なる情報漏洩の被害に対して「情報保護法」を制定し、顧客情報の漏洩を起こした企業には厳罰で臨むということが発表されました。

 

これぞ天の思し召し、と感じビビッときました。この2つがシンクライアント市場のドライバーとなると考えたわけです。昔取った杵柄で、「よし産業コンファレンスを設定し花火をあげて市場に認知してもらおう」と決めました。各ベンダーに「競争は後に置いておいて、一緒に市場を作りませんか」と声をかけ、わたしは「シンクライアント産業コンファレンス」の企画づくりに専念しました。

 

「昔取った杵柄」とは、わたしがガートナーのサービスを情報技術研究所(現在のITR株式会社)で販売を開始し、日本ガートナーグループの設立に参画した頃、ERPという概念を初めて日本に紹介したときも、同じように「ERP産業コンファレンス」を企画し、市場に浸透させたことがあったからなんです。この企画以降、雑誌紙では「統合業務パッケージ」という名称が消え「ERP」という名称に見事に変わり、多くの解説記事はわたしが執筆することになったのです。

 

まずコンファレンスの会場や講師のコーディネーションを、コンピュータ系メディアの優IDGにお願いしました。講演の講師は、全てわたしがテーマとともに決めました。しかし当時シンクライアントについて日本で発表された文献やコラムはほとんどなかったために非常に苦労しました。そんなとき、書店であるセキュリティに関する文献を見つけたんです。そこの最終章には、きちんと「シンクライアントのセキュリティ上の有効性」について述べられていました。「この著者だ!」とその発見に心が躍りました。著者は当時総務省のCIO補佐官をされていたIBM出身のOさんでした。

 

早速、アポを取ってこのコンファレンスのわたしの思いとなぜOさんに依頼したいのかを熱弁し、了承していただきました。そしてデータクエスト時代の先輩で日本ガートナーを立ち上げた後に合弁の結果日本が^ートナーグループに来られたPC市場を担当のSアナリストに公園の依頼をしました。IDGのメディアと連携したこともあって、この企画はお披露目としてはまずまず成功だったと思います。この後、日経産業新聞をはじめ多くの IT系メディアの依頼で「シンクライアント」について執筆もさせていただきました。さて、こうやって引き合いも増え、続々とHPなどの大手メーカーも市場に参入してくることにったわけです。

 

これが、日本市場におけるシンクライアントを活用したサーバーベース・コンピューティングの始まりだったと言って良いでしょう。当時まだクラウドにあるサーバーを使うことはメジャーではありませんでしたので、今で言うオンプレミスのサーバーとの接続が主だったわけです。ネットワークがまだ貧弱だったというのが大きな要因です。

 

サーバーベース・コンピューティングのメリットを当時は次のように説明していました。それは、セキュリティの向上とTCO(総合保有コスト)の低減です。

 

情報漏洩の多くは、社内で使っているラップトップを社外で使うために持ち帰った際に、盗難や紛失をしてハードディスクから抜き取られたというのが原因のトップでした。それを回避するには、暗号化するとかシュレッダーにかけて廃棄するとかという方法がありますが、ハードディスクを無くしてしまいPCにデータが一切記憶されていない状態にすることが最も確実な方法なんですよ。

 

                    f:id:naophone008:20210810173419j:plain出典:JNSA

ハードディスクをPCから無くしてしまうと、実は他のメリットも得られるのです。デスクトップPCの故障の70%の原因は、動く部品にあることを知っていますか?それは、ハードディスクと冷却ファンなんです。現在はSSDがあるのでM1搭載のMacbook Airは音もせず消費電力も低いですよね、なので冷却ファンはついていません。つまり、ハードディスクを取り除くと、セキュリティが向上するだけではなく、故障率が減る、熱が出ないので冷却ファンもいらない、低消費電力化する、筐体は小さくできる、というわけです。

 

一般的なPCの消費電力は100~150Wですが、シンクライアントのそれは10W前後とPCの10%以下なんです。これだけをみてもTCO(総合保有コスト)が下がるのは理解できますよね。しかも、ソーラーパネルで動かしたかったんです。というのもフィリピンの公立学校では電気代が払えないためにPCがあるのに使われていない学校もあったからなんですよ。一般のPCだとかなり発熱するので、エアコンも必要だという問題があったからです。

 

しかし、TCOのもっと大きな部分を占めるのは、人の手のかかる作業、つまりセットアップやアップグレード、そしてメンテナンスです。

 

シンクライアントには、大きく分けて2つのタイプがあります。OSの所在地によって分かれます。ハードディスクはないわけですから、クライアント側のROMにOSを組み込むタイプと、サーバー側に仮想OSを稼働させて使うタイプです。全アプリケーションはサーバー側にあります。となると、OSを含むアプリケーションの設定やアップデートはサーバー側だけの作業となり、ユーザーの席にいっておこなう作業はハードウェアのトラブルを除いてはなくなることになり、運用担当者の負担が大幅に減ります。しかも、70%の故障の原因が既に取り除かれているわけですから、ほぼメンテナンスフリーといえます。おそらくハードウェアのリプレース時以外は、運用担当者はサーバーに集中していればすむということになります。

 

皆さんは、クレジットカードやキャッシュカードが登場した時を覚えていますか?キャッシュレスの始まりですね。現在は、紙の通帳すら必要なくなっています。ところが、年配の方の中にはキャッシュレスに不安を感じ、いまだに家庭内に幾らかの貯金を隠している方がいるでしょう?実は、自分のデータを手元に置かなくなると不安になるのはそれと同じことなんですよ。ですから、なかなかサーバーベース・コンピューティングには、馴染めないという状況がありました。

 

この時のわたしの実績を見て、フィリピンのアヤラグループ、セブアノルーリエ、ロペスグループなどのファンドを運用するNarra Venture Capitalのパコ・サンデーハス氏から、フィリピンでシンクライアントビジネスを立ち上げてほしいという依頼がありビジネス計画を策定することになりました。その依頼は、実はシリコンバレーのTallwood Venture Capitalのファウンダーであるダド氏(Dado Banatao Wikipedia参照)の、未来はサーバーベース・コンピューティングが主流になると確信されていて、彼の願いでもあったらしいのです。

 

ダド氏は、もっとも著名なフィリピン出身の起業家で、半導体の世界では特に知られた方です。ですから、彼はシンクライアント専用の半導体チップから造っても良いくらいに考えていたようでした。約半年をかけてビジネスプランを完成させ、投資が決まりXepto Computng Inc.を立ち上げました。わたしがXeptoと名付けたのは、”小さい”(XeptoはNanoより小さい単位)ことを強調したかったことと”X”で始まる言葉を求めたためなんです。

 

              f:id:naophone008:20210810173658j:plain出典:NEC

ところがやはり市場を獲得するのは非常に難しかったんです。最大の問題は、レガシーなシステムとネットワークの性能の問題でした。特にインテル軍団とマイクロソフトのファットクライアント推進の力が非常に強かったのです。特にCADやAdobeのアプリケーションは、サーバー側にかなりパワーが要求され、ネットークキャパシティーがないと稼働しなかったのです。

 

その頃から既に15年が経過した現在はどうでしょうか?5Gが使えるようになり、わたしの自宅でさえ200Mbpsのインターネットが低価格で使えるようになっています。当時のサーバーベース・コンピューティングを阻む問題はほぼなくなっています。しかも、クラウドコンピューティングが普通になり、企業の利活用する環境としてはトレンドとなっています。

 

しかもです。米マイクロソフトは、先月7月14日(現地時間、日本時間7月15日)から開催しているオンライン・カンファレンス「Microsoft Inspire 2021」(マイクロソフト・インスパイア)でクラウドPCサービス「Windows 365」(ウインドウズ・スリーシックスティーファイブ)を発表しました。8月から提供を開始する計画です。

 

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ファットクライアントで稼いでいたマイクロソフトでさえ、遂にクラウド側へOSを持ってきました。これは面白い!なんかワクワクする新しい兆しを感じるのはわたしだけでしょうか?シンクライアントとサーバーベース・コンピューティングを推進してきたわたしとしては、「やっとここまできたか」って感じです。ダド氏の読みが現実のものとなってきました。ここから、じゃあ今後どんなことになっていきそうか、わたしなりに妄想してみたいと思いますので、次回を楽しみにしてください。

 

でわでわ

カリカチャー生成アプリMakeMe:市場投入への道 (2)

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オリンピックが始まりました。柔道や体操そして卓球など多彩な分野で日本選手がメダルを獲得しています。「政治の失策」でオリンピックをめぐって「グダグダ」問題が起こりましたが、それは政治関係者やオリンピック委員会などの方々に徹底的に総括してもらうとして、選手の方々にはエールを送りたいと思います。

 

さて、開発に10ヶ月をかけてカリカチャー生成アプリMakeMeの携帯電話でのサービスを可能にするサーバー・アプリケーションとキオスク版の両方が出来上がってきました。さて、ここから市場開拓が始まります。

 

まず、市場ターゲットを決定しなければなりません。まずどの程度反響があるかを確かめるために、キオスク版を使って作成されたカリカチャー似顔絵をプリクラのようにプリントアウトするようにして外国人も含めて人が集まるところに設置し試してみることにしました。

 

アクセスしたのは、ドンキ・ホーテでした。マーケティング担当のOさんがトンキ・ホーテに知り合いがいたのでそのルートで、建物の一角でキオスク端末を置いて、1週間限定でサービスをさせてもらいました。

 

どんな人が、MakeMeを楽しんだと思いますか?日本人と外国人の反応に違いはあったと思いますか?

 

実際はこうでした。最もこのサービスを楽しんだのは、子連れのお母さんでした。お母さんは、自分の似顔絵を作るのではなく、半分無理やりに子供に「やってみないさいよ」ってやらせてたんです。楽しんでいた最大のポイントは、こうでした。子供の髪の毛を絶対に実際にはしない髪型と色を、取っ替え引っ替えして笑い転げて遊んでいました。「へえ〜そうなんだ。韓国とは違うねえ」と驚きました。

 

外国人と日本人の反応は?まず日本人の反応ですが、ほぼ全ての方が「似てる?似てる?」と似てるかどうかに非常に拘っておられました。それに対して外国人の反応は、「おっ!こんな顔になるんだ、面白い!」と言って素直に喜んでおられたわけです。この時点で、「サービス開始するとちょっと難しい反応が帰ってくのでは?」と不安を感じたのを覚えています。

 

この時点で、適用分野の絞り込みに集中することになるのです。ちょうど知人から、カメラ付き携帯電話が発売され始めているので、携帯電話の販売促進で使えないかとの話も来ていました。

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出典;livedoor

1)エンターテインメント

  ー カメラ付き携帯電話の販促

  ー プリクラのサブシステム

  ー ゲーム用キャラクター作成機

  ー 顔占い

  ー 絵本のカスタマイズサービス

  ー お土産店で商品へのアバターの印刷

2)ビジネス分野

  ー チラシなどで店長や店員などのキャラクター作り

  ー 生産者を紹介するPOP作成

  ー サイト内で会員様のアバターとして

 

これらの分野をプライオリティにして営業・マーケティングを開始しました。もちろん、営業資料も各分野での利活用のアイデアを盛り込んで作成もしました。

 

さてそうこうしているうちに、カメラ付き携帯の販促の話が進展し、数度にわたって大手広告代理店(A社)との打ち合わせを経て、テストを開始しようということになりました。テスト環境の打ち合わせで早速問題発生です。

 

当時、携帯電話コンテンツ・サービスのデータセンターでは、LINUXのみが稼働していました。MakeMeサーバはWindowsサーバとExchangeサーバを使っているために、サポート可能なエンジニアが非常に少ないという問題にぶち当たりました。それと、携帯電話側から写真が送信されて、結果のカリカチャー似顔絵をリターンするまでに3秒以内にしてほしいというリクエストにこたなければなりませんでした。

 

インストールなどはリモートでエンジニアにトレーニングしました。レスポンスの方は、Exchangeサーバが正確に動いていれば2秒以内で結果を返します。さて、最後は、耐久テストです。早朝にテストを開始して、夜中にダウンしました。このテストは1週間近くかかったのですが、順番に徹夜し何かあれば韓国側に連絡して解決に当たるとい日々が続きました。いや〜大変でした。そしてようやくA社から合格の認定が出て、本番のサービスインを迎えることになりました。

 

ワクワクして、本番を迎えどれくらいの人が使っていただけるのか?評判はどうか?をみんなで毎日監視していました。するとA社から目立つクレームがあるという連絡が入りました。それは、「私の顔はこんなに丸くない!」という女性からのクレームだったのです。

 

そのクレームの主の写真と作成されたカリカチャー似顔絵をそれぞれじっくり見比べてみました。ところがです、「どうみても全く同じだよね!」というのがわたし達の見解でした。そういえばと思い出した論文がありました。それは、「人間は正しく自分の顔を認識していない」という研究論文だったのです。特許申請する際に勉強した中にあったのです。つまり、少し自分が理想とするものに近い顔立ちで認識しているというものでした。

 

結局、わたしは5%顎部分の輪郭を細くしてアウトプットするようにプログラムの変更を韓国側に依頼することにしました。まあ、その必要性を説明するのは簡単ではありませんでした。こうしたことで、クレームは無くなったんですよね。げんきんなものです。

 

結果、いろいろ驚くことが発見されました。なんだと思われますか?その最大の一つがこれです。

 

最大の利用者は、40歳代の男性だった」ということです。

 

この事実を社内でいろいろ分析してみたのですが、一番あり得そうな答えはこうでした。男性が社内やクラブの女性との話題づくりで「こんなのあるんだけれどもどうだいやってみる?」「これ俺なんだよ、若いだろう!」なんて楽しんでいるのでは!ということで落ち着きました。

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そうなんです、この手のシステムでコンピュータでは写真の分析から年齢を認識するのは無理だということと、鼻などの顔のパーツや輪郭に似たものが認識されるとカリカチャー似顔絵を作成してしまうという事実です。便器に顔のようなものを描いてサーバに送信している方もいました。

 

さて、いくつかのメディアで取り上げてもらえるようになって問い合わせも増えてきました。ベネッセに営業に行った時です。絵本や学習本で似顔絵を使うことの意義が、韓国の教育雑誌に掲載されていたので、どうだろうかと思って訪問したんです。残念ながら採用には至りませんでしたが、非常に興味深いことを聞かせてもらいました。

 

それは、「家族の方がテキストブックに登場して、教えると子供は数倍早く覚えるんですよ!」というもので、MakeMeで生成した家族の似顔絵を活用すると効果が出るということです。これは、韓国の教育科学者の論文とも一致する内容でした。本当にやってみる価値はあると思いましたが、チャンスがなかったのです(m(_ _)m)。

 

一方、ゲーム用のキャラクター生成については、セガやその他いくつかのゲームソフト開発会社とやりとりしました。セガに関してはプリクラ機を製造されてもいたので同時にプリクラのサブシステムの商談をしておりました。しかし、やはりなかなか首を縦に振ってもらえなかったわけです。確かにゲームユーザーは自分が主人公になりたい願望はあるそうなのですが、技術的に3Dで精度の良いキャラクターでないと使えないというのが結論でした。今の、3Dアバターみたいなもんですね。でもまだ仕上がりの精度は問題でしょうけど。

 

ある日オフィスに出社すると「マイクロソフトの中国から電話がありましたよ」とメッセージをもらい、早速電話してみました。そうすると「MakeMeは面白くて非常に興味がある」とのことでした。マイクロソフトは北京に研究所を置いていたんだです当時。「どういうご要望ですか?」と聞きますと一言「売ってくれ!」と言われました。つまり、Outlookのサブシステムとして使いたいということらしく、「アバター付きメール」みたいなものでしょうか、詳細は分かりません。

 

わたしの中では、即座に「No!」という答えがありました。「そんな狭い世界でMakeMeの使い道が限定されてしうのは嫌だ、もっと可能性はいっぱいあるんだ!」というのがわたしの思いでした。まあ、投資家さん達には一つのExitだったかもしれませんが(m(_ _)m)。

 

顔占いの分野では面白い提案ができていました。顔占いのサービスサイトを見ていますと、自分の判断で、似た形の目、鼻、耳、眉毛、ほくろの位置などを選べば、占いの結果を出力するという主導のものばかりでした。MakeMeの場合は、データベースにある顔の顔のパーツを選び出してくるので、それぞれに占いを紐づけておけば自動的にコンピュータが分析をして占いの意味を出力するのでもっと占いとしてのリアリティがあるわけです。

 

セイコーが顔占いサイトを提供していて、そこに提案したところ採用してもらうことができました。さらに、OZmagagineのオンラインサイトで一ひねりした顔占いをやってみようということで出てきたアイデアが、「男女で遊ぶ顔相性恋占い」でした。このアイデアを聞いた時は「これは面白い!」と本当に思いました。

 

サービスが開始されて、多くのアクセスがあったらしくとても喜んでもらいました。アイデア次第でこのユニークなカリカチャー似顔絵生成システムを使えばこんなに面白いサービスになるんだと改めて感心した次第です。

 

さあ、次がわたしのCubicmoreでの最後の仕事になった案件です。ヘラクレスに上場していたあるゲーム開発会社(N社)からきた案件です。彼らは香港と中国に進出していて苦労している最中でした。案件は、第九城市(?)だったか上海の大手オンラインゲームサイトを運営する会社です。当時は、北京のセイダイか上海の第九城市(?)かと言われていた時代です。セイダイはその後NASDAQ市場に上場を果たしましたね。

 

N社は、これが中国初案件になると鼻息が荒かったのを覚えています。提案は、第九城市のオンラインゲームのキャラクターが着ているボディにMakeMeで作ったユーザーの似顔をドッキングさせて印刷したりできるようにするサービスです。やはりユーザーはゲームの主人公になりたがるんですね。

 

これは、Webサイトでのサービスだったために結構なカスタマイズが必要になりましたが、無事サービスインしました。

 

このようにして、MakeMeを通じて初めてゲームなどのエンターテインメントやマーケティング・コンテンツというものを学びました。特に、似顔絵が持つユニークなインパクトを学ことができました。このよなブログの書き手さんも似顔絵やアバターをよく使いますよね。色々な意味があるのでしょうが、少なくとも見た人に与えるマイルドな印象と匿名性が同居していますよね。

 

最新の顔認証技術を使えばもっと活用場面は広がります。機会があればもう一度チャレンジしてみたいと思います。そんな面白いプロジェクトでした。

 

 

 

 

 

カリカチャー生成アプリMakeMe:市場投入への道 (1)

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MakeMe

 韓国でB2Cのオンライデパートが多くのアクセスを獲得していた頃(1990年台後半)、同時にそのサイトで使えるアバターが人気を得ていました。これが、Yahooなどでも自分の好みのアバターを福笑い形式で、顔などのパーツや髪の毛そして服を着たボディの中から選んで作成しサイト内で使えるサービスが出始めました。現在はLINEのサービスでもありますよね。

 

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LINEアバター

アバターを楽しむのは、韓国では中学生や高校生が年齢層としては中心でした。あるとき韓国の最大手キャリアを有するSKグループ(日本でいうところのDocomoにあたります)から、わたしに連絡が入り、「面白いソフトウェアがあるんだけれど話に来ませんか?」というので、とりあえずみてみることにしました。

 

SKグループは、わたしがガートナーの「エンタープライズ・アプリケーション戦略」担当のアナリストをしていたときに、韓国情報産業連合会の李ヨンテ会長(三宝コンピュータ会長、当時Trigemという低価格PCの火付け役でSOTECの筆頭株)の招待で、ソウルで講演をさせていただき、SAPを導入中のサムソンからプロジェクトで困っているので助けてくれと言われて訪問した時にわたしを知ったそうです。

 

SKグループとの会議で見た時のものは、2Dと3Dの両バージョンでした。顔写真からそれを分析しアバターを作るという以外、詳しいことはSKグループも理解していなかったようです。当時非常に珍しいソフトウェアだったので、韓国まで行って詳細を確認したいと思いました。

 

このソフトウェアのコンセプトは、パスポートタイプの正面写真を入力すると、輪郭と顔のパーツ(鼻、目、口)を分析し、データベース化された数百の顔パーツから近似値に相当するもの選びだし配置するという、福笑い形式とは違った「似顔絵」的なキャクターを生成してくれというものです。気に入らない顔のパーツは後から変更が効くし、タトゥーやメガネをつけたり、髪の毛の形や色も変えられるんです。そして、正確には「似顔絵」というより「カリカチャー」つまり特徴を若干誇張する技法を使っています。

 

これは、さまざまな楽しみ方があると確信し、なんとかしてビジネスにしたいと思いました。しかし、開発者は数百万の手付けと引き換えに、使用権を渡すというのではたと困りました。どうやって数百万を捻出するかです。

 

知り合いに相談をしました、そしてその中で「データイースト」というアーケードゲーム一世風靡した会社の名が上がりました。早速アポをとってもらって、プレゼンに行ったのです。そして再度ミーティングを持ち、別の関係者にも見せたいというので再度伺うことになりました。

 

2度目の会合では、投資家さんたちが参画していました。後でわかったのですが、「データイースト」は、破産状態で傘下にあった携帯のバッテリーの金属ケースを加工する会社が目当てで上場したばかりの「フォトニクス」という半導体検査装置の製造会社の柄澤社長とM&A会社が事実上管理をしていたのです。柄澤社長の目に止まったようで、ベンチャーを作ってそこでこのソフトウェアを使ったビジネスをしようと認めていただき、わたしは事業部長としてリードすることが決まりました、

 

まずは、ソフトウェアの確認と提携の交渉を韓国に行ってやりましょうということになり、私と社長で飛びました。ソウルのSKグループのオフィスで先方(名前を忘れてしまいましたm(._.)m)とSKグループとの間で、まずソフトウェアのプレゼンを拝聴し質疑応答をしました。わたしは、改良は必要だけれども日本市場でのニーズはあると確信しました。

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韓国SKグループ

それで、手付金を払う約束と手付金確認後1ヶ月以内に版権を引き渡すことで合意をし、日本に戻ってきたのです。ところが、着手金支払い後待てども版権を送ってこない。わたしは業を煮やして、紹介者のSKグループにクレームを出しました。

 

そうしたら、「彼らはすでに版権を他社に販売してしまっていた」と報告が入りました。わたしは顔面蒼白になりました。詐欺だったわけです。でも。天下のSKなら事前に調べておくべきじゃあないでしょうか?さんざん文句を言いました。そうしてやく半月して、「現在の版権所有企業が見つかりましたので、韓国に来てください」というので、再び飛ぶことになりました。

 

前回同様にSKグループのオフィスで会うことになりました。部屋には、SKの連中と金ヨンサム社長(ポド株式会社)が着席していました。金社長は、非常に大人しく恥ずかしがり屋に見えました。彼はこう提案してきました。「あなた方が支払ったお金は、私がいただいたことにしますので、ぜひ日本で展開しませんか?」というもので、大変驚かされました。ホッと胸を撫で下ろし、「やりましょう!」と言って握手を交わしました。

 

されに、技術の詳細を確認しました。「まだ満足いくところまで写真を分析できていない。顎のラインを取るのがものすごく難しい数式の塊で、それを理解できるのは韓国でもCYOだけしかいない」ということでした。「それは、調整していきましょう」ということで合意をして日本へ戻りました。

 

韓国のモールでは、このサービスを使ってTシャツやマグカップなどに自分のアバターと選んだ背景を印刷するという写真館のようなところで人気をはくしていました。「ちょっと待てよ?日本人って自分の似顔絵や写真をお金はらってグッズに印刷するかなあ?」答えは、ノーです。これは、適用サービスを考えないとダメだなって思いました。

 

ちょうどその頃、J-Phoneのカメラ付き携帯電話が市場投入されるということが囁かれていました。わたしは、直感で「これだ!」って思いました。このソフトウェアは、カメラが必須です。最初の韓国版はPCのWebでのサービスとして作られていました。しかし、携帯電話でのインターネットアクセスは鰻登りに伸びていくと確信していましたので、急遽携帯電話版を開発することに決めました。

 

わたしは、社長に掛け合ってCubicmoreという会社を立ち上げ、エンジニアとセールス・マーケティング、そして韓国とのコミュニケーションを取るために、日本語と韓国語を使える人材を採用させてくださいとお願いし、了承を得ました。

 

たまたま、知り合いの社長が時々連れて行ってくれる東京赤坂にある韓国クラブの「みんちゃん」と呼んでいた、いつもわたしのテーブルに座ってくれる女の子のことを思い出しました。彼女は、非常に綺麗な女の子でしたが、雰囲気がどうもクラブには不似合いな感じがしていたので、思い切って誘ってみることにしたんです。「みんちゃん、今度韓国企業とビジネスするんだけど、僕の秘書になる気ない?」って聞いてみたんです。

 

なんと、彼女はとっても喜んでくれてすぐにOKしてくれました。聞くと、「日本に来て最初はパチンコ屋で務めて日本語を勉強したけれども昼間の仕事になかなかつけなくて、仕方なく知り合いを頼ってクラブに来たんだけれど、昼間の仕事がしたかったんです」ということでした。彼女は第1号社員で、エンジニアの採用も一緒にやりました。彼女は、結構人の性格を見抜くのが上手だなあと感心しました。

 

そして、数人の面接の後、一人の青年に採用を決めたんです。Mくんという、気弱でガラス製の糸のような青年でしたが、技術力はあるなあと思いました。ただ、彼の精神状態には十分気を使ってやらないと、すぐ潰れてしうことはわかっていました。そして、以前からの知り合いで若干年配の女性でマーケティングのベテランのOさんに無理を言って入ってもらいました。

 

今後の製品の改良の件で、韓国ポド社の金社長とCTOと早速ミーティングを持ちました。彼らは、快く同意してくれました。ついでに、キオスク版、つまりゲームセンタなどにおいて遊ぶ(プリクラがモデル)PC単体アプリの開発も提案してくれました。

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さあ、開発が始まりました。サービスのアウトプットとして出来上がってくる「カリカチャー顔」の調整が最も大変な作業でした。韓国人の顔と日本人の顔はやはり微妙に違うんです。肌の色も、韓国人はピンク色が肌に入っているけれど、日本人は褐色が入っている。髪の毛の好みも違う。鼻から目や口までの距離、輪郭までの距離も違う。服の色の好みなんかもやっぱり違うんですねえ。いや〜〜〜大変でした。

 

中でも難しかったのは、輪郭の抽出でした。どうも顎のラインは、首の色との区別がつきにくいので抽出が難しかったようです。どうも色に関する分析と微分計算の塊だったんでしょうね。それと顔の作りは、民族ごとに特徴が違うので汎用性を持たすには長期の研究が必要でしょう。

 

わたしからのリクエストを、エンジニアのMくんとみんちゃんでポド社のエンジニアに伝えるのにも苦労しました。如何せんわたしのリクエストは絶対命令で、ポド側では「なぜそんなことが必要なのか理解できない」ということが多々あったのです。当然です、日本人のサービスに関する考え方と韓国側のそれとは明らかに違いますよね。外国人にその違いを説得するのは、本当に大変です。

 

これはかつて、米国のERPパッケージのR&Dで仕事をした時にすでに経験済みでした。例えば、財務会計ソフトウェアの入力画面ですが、日本の経理部の人たちは、おおよそテンキーとタブキーで仕事をしますが、入力画面にはアウトプットの帳票に近いイメージを求めます。それに入力フィールドに罫線が入ってないといやがるのです。ところが欧米では、その罫線を定義したり表示したりすることのパフォーマンスを考えて、タブで飛んだフィールドに入力項目名が上部に表示されていれば問題ないのです。罫線は必要ないわけですね。こんなところに、ローカライズの難しさがあるわけです。

 

さらに、当初韓国同様に中学や高校の女性とをターゲットにしていたので、操作性やインタフェースも何度も試行錯誤しました。こうやってついに10ヶ月後に最終版が完成したのです。

 

さあ、ここからがマーケティングのフェーズへと突入していくわけです。わたしは、このマーケティングでさまざまなことを学ぶことになります。今まで考えたこともないことですよ。楽しみにしてください。

 

でわでわ

 

 

 

 

条約締結に向けてーフィリピンで学んだ環境問題(2)

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美しいセブ等の海!ジンベイザメ、海亀、トロピカルフィッシュ、たくさんの生物が泳ぐ海!わたしは、約2年間このセブ等で過ごした。セブ等のある地域をビサヤ諸島とよび多くの島が散在している。フィリピン最大の観光スポットでもある。

 

この美しい島々と海が、水銀に汚染されたらと想像してみてほしい。これは大変だ、放って置けないと思われるでしょう。

 

セブ市には、「ITパーク」という地域があり、コールセンターに代表されるBPO企業やソフトウェア開発企業が多くある。マニラに比べると、比較的労働者が確保しやすいこともが理由でもある。また、美しい島であることを売りにした日本人留学生や家族を対象にした英会話スクールなども続々進出しています。

 

フィリピン第二の都市であるセブ市は、ゴミ問題をはじめさまざまな環境問題を抱えています。当時(2014年)セブ市の市会議員を務められていて環境問題の第一人者であったNida C. Cabrera女史が先頭になって、北九州市や横浜市と共同プロジェクトを実施されていた。

 

マニラ圏で蛍光灯収集プロジェクトをスタートさせたのを機に、セブ市からの要望でわれわれが設置した破砕機を導入し、同様に野村興産のイトムカにある処理プラントで処理したいという要望が来ました。その予算は、UNIDO(国際連合工業開発機関)が提供するということになりました。

 

早速、Cabrera議員を野村興産とともに表敬訪問しました。そしてわたしたちのプロジェクトの概要をプレゼンさせてもらい、協力を仰ぎました。数回にわたって、PCO(Polution Control office 企業の環境担当責任者)を中心に、セミナーを開催し野村興産のイトムカプラントに招待し、理解してもらうという趣旨でした。

 

セブ市には、イナヤワンというゴミ山があってここに産廃業社も軒を連ねている。その中にCebu Common Treatment Facility Incorporated (CCTFI 社)というセブ市のCabrera女史と連携して産廃業を営む企業があります。ここが我々のカウンターパートとして、破砕機を設置し、蛍光灯を回収することになったわけです。

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セブ島には、太陽誘電常石造船、ミツミなど、日本を代表する企業もあり、空港側にある経済特区にも80社以上の日系企業があります。これらの企業をターゲットとして、セブ日本商工会議所や日本人会などの協力を得て、セミナーを開催していきました。

 

セブ市では、北九州市のエコタウンなどから産廃業社がきて、いくつかのプロジェクトを実施していました。例えば、廃棄された携帯電話を回収しリサイクルできる金属や部品をリサイクルするプロジェクトなど。残念ながら、このプロジェクトは成功しているようには見えませんでしたねえ。なぜなら、フィリピンでは携帯電話は「お下がり」市場があるんです。つまり、古くなったり、何処か故障したりした携帯電話機は、買取業社がたくさんがあり、その業者が故障などを治して安く販売する、予算のあまりない人がそれを買う。このビジネスが非常に大きなマーケットを持っているからなんです。

 

フィリピンでは、非常に厳しいルールを設けて産業廃棄物に関しては基本的に正しく処理をしようとしているのですが、家庭ゴミはまだルールが徹底できていない状況です。ゴミ収集車が回収に回るのですが、家庭ゴミは十分に選別されていません。トラックには、いくつかの大きな袋が側面に吊るされていて、回収中にリサイクルできてお金に変わるものを回収している人が選別し、ゴミ処理場に到着する前にお金に換え小遣いにしているのです。

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 そして、ゴミ山には住み着いている人たちがいて、お金に変えられるものを拾い集めて現金化しています。その人たちのことを、スカベンジャーと呼んでいます。その多くが子供達なんです。水銀のついた蛍光灯を踏んでしまって、死んでしまう子供までいるというのが現状です。

 

ゴミの選別というのはとっても大事なことで、それは手間のかかることであり知識も必要なアクティビティなんですよね。わたしたちは、セミナーを通じてまた政府や自治体との会合を通じて、学校教育にしっかり組み込むことの大事さを強調してきました。社会のルールを徹っていさせていくには、子供たちが最も強力な教師になるんです。親は、子供に言われて嫌と言えませんから、そうでしょ?

 

フィリピン人の多くは、まだゴミは金に変わるという意識があり、業者が処理費を請求するのが難しいということが最大の問題です。少なくとも蛍光灯は100%輸入であり、税関が全て押さえてるわけです。ですから、そこでリサイクル税を付加すれば済むわけです。環境省には、台湾の事例を伝えました。台湾ではそれを実施しているが、なぜか蛍光灯がすべて製品として市場に出ていなくて、税金が処理費として100%処理業者にいかず、30%近く税金が残るという事実を伝えたのです。これは、いわゆる彼らに対する「飴」なんですね。

 

そうすれば、遅かれ早かれLEDの価格が下がれば、蛍光灯からLEDに変わっていくことを訴えました(LEDからは別の廃棄物が出るのですが)。まあ、省庁間で連携して行う制度には、なかなか合意が取れません、これが現実です。

 

わたしが、セブのプロジェクトのためにマニラから航空機で移動した時のことでした。近くに上院議員のシンチャ・ヴィリアー女史が乗っているのを発見しました。彼女は、わたしの住んでいたラスピニャス市在住で、ベニグノ・アキノ3世(愛称ノイノイ)氏と大統領選で戦った不動産王の一人であるマニー・ビリアー氏の奥さんに当たります。お父さんは、ラスピニャス市の市長の座に長期にわたって座っている、ネネ・アギラー氏に当たり、いわゆる大金持ちです。上院では、環境問題を代表する議員さんでした。

 

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シンチャ・ヴィリアー上院議員



これは、チャンスとばかりに駆け寄って、わたしたちのプロジェクトを説明し支援を求めたところ、帰ってきた言葉は「日本でしょ?高いばかりで話にならない」でした。愕然としました。コストだけで考えて一蹴するのが、この国の環境担当上院議員なのかと。

 

わたしたちの最大の目標は、フィリピンが水俣条約を批准することと、自ら水銀処理の技術を取り入れ運用してくれることでした。でも、「こんな上院議員がいるようじゃあ、時間かかるなあ」というのが正直な感想でした。

 

セブのプロジェクトも第1回の回収と日本への運搬も終わり、さああとは水俣条約の批准だと意気込んでいました。ところがです。ふと気づいたのは条約に批准したらフィリピンにある水銀はすべて国内で処理しなければならないということに気づきました。

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何ができるか考えていると、ふと思い出したことがありました・蛍光灯処理についての業界分析をしているときに、フィリピン・エネルギー省が、蛍光灯の破砕から水銀抽出(純度は若干低く、蛍光灯の破砕粒度が細かすぎてガラスのリサイクルに制限があった:日本ではガラスは再度グラスなどに加工され販売もされる)までできる全長約30メーターほどの機械(ヨーロッパからアジア開発銀行の融資で購入)があることを思い出した。

 

もう一度エネルギー省の担当ディレクターに詳しく話を聞きに訪問したんです。最大の疑問は、なぜこれを環境省ではなくエネルギー省が手に入れたのか?なぜ稼働させないのか?でした。きっかけは、政府関係の全建造物の蛍光灯をLEDに交換するという決定があり、そのためにその蛍光灯を処理することができなければいけないので、LED化担当のエネルギー省が急遽購入したというのです。

 

さてそれが、環境省がお気に召さなかったようで無視し続けているというのが実情だった。しかも、エネルギー省は稼働させた場合、外部コンサルタントを使って蛍光灯1本あたりの処理コストを計算したところ20ペソ(約40円)弱だと言ってい流のです。わたしは、どうしても信じられませんでした。この機械を稼働させないで放置していると、機械のコストの回収もできず、倉庫代も毎月かかる、スキャンダルだと言わざるを得ない状況でした。

 

とりあえずこれをメンテナンスして、われわれがオペレータを出して(もちろん政府から費用はもらいますが)稼働させるのが一番良い方法だと思い、国連のUNEP、UNIDO、野村興産に提案しました。「その方向でやってみてくれ」ということだったので、エネルギー省のトップクラスと協議させてもらえるように働きかけました。

 

そこで得た合意は、どこか自治体に機械を寄付するということでした。ということは、機械の運搬費から自治体の負担になるわけです。そうなると選択肢は一つです。最大の自治体であるケソン市に提案するしかない。そのためには、運用コストも計算して自治体が回収可能なのかを提示して見せるしかないわけです。そこで、エネルギー省が外部コンサルタントを使ってコスト計算をした報告書をコピーさせてくれるよう要請しました。ところが、出てこない。つまり、嘘をついていたわけですよ。で、蛍光灯1本あたりの処理コストが20ペソだなんてことはあり得ないというわたしの勘ぐりは正しいと確信し、コスト計算を機械を製造している会社か、メンテナンス会社にお願いしようとリサーチしました。米国にメンテナンス会社があることがわかり、メールで協力を依頼しました。わたしがフィリピンでの労働者の賃金やその他の見積もりを提供し、コスト計算が仕上がりました。

 

次に重要なことは、抽出した水銀をどのように埋め立てるかです。そのためには、特殊な容器が必要で埋め立てに適した場所と埋め立て方を、野村興産のコンサルティングをしてもらうしかありません。

 

ここまでお膳立てをして、ケソン市およびエネルギー省に「あとはあなたたちで話し合ってください」と言って、わたしは身を引きました。UNEPのDr. Desiree Montecillo- Narvaezと一緒に食事した際に「よくやりましたね」と褒めていただき恐縮しました。

 

フィリピンでは、条約に調印する際に全省庁の合意を取るというルールがあり、2年間ある一つの省庁が、合意しなかったために条約の締結には至らなかったのですが、ようやく調印したと情報が入り一安心。しかし、いまだにあの機械が稼働しているという話は聞きません。どうなることやら心配です。

 

このプロジェクトの詳細は、「Zeromercury projekut報告書」をお読みくださいね。このプロジェクトを通じて、環境省、エネルギー省、保健省、各自治体と信頼関係もでき有意義だったと思います。

 

でも、環境改善プロジェクトは継続できるかが大事ですね。

 

ではでは

条約締結に向けてーフィリピンで学んだ環境問題(1)

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わたしは、2007年から2020年までの13年間をフィリピンで過ごしました。ニューヨークに本社を持ち65カ国に展開するWundermanで、2012年に日本マイクロソフトのインターネット・マーケティングのサポートをしていたのですが、日本マイクロソフトの収益の悪化で契約を切られることになり、わたしも退職することになりました。

 

わたしが交わした雇用契約書は、20ページ近くあるもので、テスト期間の3ヶ月のうちに辞めた場合は、研修費をわたしに請求するなんて条項まであるものでした。ジョブ型雇用の最たる雇用契約です。

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それで、辞めたときに比較的短い期間の仕事でしたが退職金やもらえるはずのボーナスなどの計算をして、結構な金額をいただいたのでしばらく日本語でも教えながら過ごしていました。その時の生徒に、「良い仕事ないかなあ」と話したところ、「お父さんに話してみるわ」と言ってくれたんです。数日後、お父さんとお会いすることになって、それが縁で故郷の京都市に本社のある「株式会社旭東樹脂」のフィリピンのテクノパークという経済特区にあるFRPフィリピンという工場で仕事をすることになりました。

 

FRPというのは、Fiberglass  Reineforced Plastic の略でスーパーカーのボディなどのように頑強であるが軽い素材、または化学薬品で腐食してしまうようなタンクを成形するのに使われものです。この会社では、3階建ての家のような大きな鉱山向け集塵機や直径数メーターのパイプなどを作っていました。また、トヨタ車のディーラオプションとしてパーツやフィリピンおイントラムロスというスペイン時代の建物が残る地域の電動タクシーのボディなんかも作っていました。FRPのなんの知識もないところで、職人集団のような工場の管理者として配属されたために、なかなか思うようにいきませんでした。

 

そうこうしているうちに、社長のお兄さんが経営されている「旭興産業株式会社」という水銀を含む廃棄物を収集している会社に移って、フィリピンに同じビジネスを立ち上げてみないかと声をかけてもらいました。旭興産業は、アジアで水銀抽出処理のできるトップ企業の野村興産のパートナーとしてプラントへ運び込んでいたのです。

 

当時、日本の環境省が、「水俣条約」を各国に批准してもらうために、さまざまな取り組みをしていた最中でした。環境省主催で、2013年12月にUNEP (国連環境計画)世界水銀パートナーシッ プ廃棄物分野のワークショップ がマニラで開催されました。その会合に野村興産の通訳として出席したんです。

 

UNEPを代表してこられていたDr. Desiree Montecillo- Narvaezとあることで親しくなりました。わたしがシリコンバレーの投資家でフィリピン人のMr. Dado Banatao(Tallwood Venture Capital)と仕事をしているという事実に、驚嘆したことですした。彼女は、Mr. Dadoと同じスタンフォード大学を出ており、彼がフィリピンの大統領すらも会いたがる超有名人だったからです。

 

この会合を皮切りに、野村興産のフィリピン側のカウンターパートとして、UNEP、UNIDO(国連工業開発機構)、フィリピン環境省、フィリピン商工会議所、フィリピン国内の環境NGO、などをコーディネーションすることになったわけです。

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みなさん、水銀ってどこで使われているかご存知ですか?蛍光灯、乾電池、はいそうですね。かつては銀歯(アマルガム)、口紅にも使われていましたし、印肉にも使われていました。昔の体温計や血圧計で銀色のものが伸びたり縮んだりしていたでしょ。それも水銀です。さらに、神社のあの朱色も水銀が使われています。それにアジア地域で採掘される化石燃料は、中東で産出される物よりもかなり高い濃度で水銀を含有しています。

 

しかし、現在は危険廃棄物として使用が制限されていますね。しかも、蛍光灯はLEDに変わっています。日本は、野村興産がありますから安全に廃棄できていますが、アジアの他国はそうではありません。フィリピンも例外ではないわけです。

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イトムカ処理プラント

わたしと野村興産の最初の取り組みは、経済産業省の人材開発予算を使って啓蒙し、野村興産の北海道イトムカにある処理プラント(途中家庭ゴミの処理プラントにも見学に行きました)へ招待することでした。

 

当時のフィリピンでは、環境省により認可を受けた処理業者と各企業は契約し処理し、処理証明書を発行してもらうというルールになっていました。ところがです。その処理業者はどのようなシステムで処理しているのかが問題だったのです。

 

こんな感じです。ドラム缶の上にフィルター付きの破砕機が乗っかっています。破砕機には筒のようなものが据え付けてあり、その穴から蛍光灯を挿入すれば破砕機が粉砕してくれるというものです。フィルターはヘパフィルターで決して特殊なものではありません。フィルターに破砕時に出る水銀のパウダーを吸着させるのですが、当然ヘパでは完全に取れませんので、破砕されたガラスに多くは吸着したままなのです。

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これらの事実は一般には知られていません。もちろんフィリピン環境省は知っているでしょうけどね。代替技術がないということで許していたわけです。ドラム缶が満杯になると蓋をして鉄のリングで止めて、地中に入れコンクリートを流し込むわけです。しかし、コンクリートで単純にふさぐだけだと何年かするとドラム缶が腐食してコンクリートから水分と一緒に流れ出る可能性があり、非常に危険です。

 

水銀の使い道として金の抽出に使われており、フィリピンでも違法採掘業者がどこかから銀歯を買ってきて、その水銀を使っています。それが、海に流れ出て水俣病を引き起こすわけです。ドラム缶の埋め立てでは、いつかこのようなことがおこることは明白でした。

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わたしたち日本国民は、多くの人の犠牲のもとに水俣病の恐ろしさを知っています。これはなんとかしないと、って心から思いました。

 

そして2年目の2014年は、環境省の予算でフィリピンの企業の環境担当(PCOというポジションが各企業にあります)を啓蒙しながら、日本から破砕機を持ち込みとにかく蛍光灯を集め、フィリピンで破砕して少量化し、日本のイトムカにある野村興産のプラントに運び入れることをはじめました。

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啓蒙時には、水俣病がどういうものか、どういうメカニズムで水俣病が発生するのいか、具体的な画像を交えてプレセンしました。いくつかのNGOも賛同し協力してくれました。フィリピン環境省からの協力もひとかたならぬものでした。このムーブメントにわたしは、「Zeromercury project」となずけ活動を広げていったわけです。

 

ところが、大きな壁があることに気づきました。回収料金です。当然日本へ運ぶわけですから、現地回収業者の二倍以上の金額になります。「これは困ったぞ!フィリピンの企業は渋るだろうなあ」と思いました。はじめてみると、やはりでした。

 

この回収に賛同し料金を払ってくれたのは、日本の大手企業のフィリピン法人の数社とアメリカのGE現地法人だけでした。フィリピンの蛍光灯は今は100%が輸入品で、かつて製造していたGEは工場閉鎖時に床などに水銀が残っており、それをわたしたちに委託してきたのです。

 

賛同してくれた日本企業の考え方は、こうでした。「もし十分な処理ができない業者に任せて何かあったら、自分たちのブランドに傷がつき不味いことになるしCSRを果たせない」というものでした。ところがです、最大の自動車メーカーは、自分たちでフィリピンで許可された基準で処理して埋め立てる、水銀が付着した例のへパフィルターだけを処理してくれときたわけです。

 

ヘパフィルターで100%水銀が吸着できるわけではないので、埋めた破砕ガラスからいつか漏れ出す旨をひつこく訴えたが、おそらくコストを重視したのでしょう。ダメでした。

 

さて、3年目の2015年は、さらにこのプロジェクトをセブ島地域へ拡大する取り組みなります。苦労はまだまだ続くのです。次回もぜひお読みくださいね。

 

でわでわ

脱成長コミュニズム:斎藤幸平さんへの手紙

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 拝啓

『人新世の「資本論」』 発売以降、動画への出演が劇的に増加してますねえ😲わたしは、大阪市立大学出身ということもあって、「おたくも市大でマルクスですかあ」というシンパシーを感じるのですよ。

 

以前このブログで、「わたしを覚醒させた書」として『人新世の「資本論」』 への思いを綴りました。その後、あなたのさまざまな動画を見て斎藤さんの考えを理解しました。売れっ子の常で、さまざまな人がこの『人新世の「資本論」』を取り上げて、解説したり批判したりしています。

 

哲学者もどきのYouTuberが、浅薄な知識で持って解説しているのはちょっといただけないのですが、それほどまでに「資本論」「マルクス」「コミュニズム」という言葉に共感を覚えている多くの人がいることが、わたしにとっては驚きです。そして、マルクス主義者としてカミングアウトする人も増えていますね。

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哲学者のスラヴォイ・ジジェクが叫んだだけではこのような現象はおきなかったでしょうね。斉藤幸平さんだったから、また斎藤さんの「資本論」や「コミュニズム」などの解き方、気候・環境問題を中心に展開されていること、マルクスの再発見という新世代のフレッシュさ、そして何よりも斎藤さん自体が34歳と若いことが、共感を生み出したのではないでしょうか?確かに、さまざまなシステムの綻びを多くの人が肌に感じ、「政治」という茶番劇に憤りを感じていることも手伝ってのことではないでしょうか?

 

わたしは、ひとつ恐れていることがあります。そして願っています。斎藤幸平という人がブームで終わらないことを、そして危機に対するサプリメントで終わらないことをですYouTubeであるいはさまざまなメディアで、斎藤幸平を「商品化」しようとしている向きも感じます。

 

基本的には、応援歌を送っているつもりなんですが、いくつかお聞きしたいことがあるんです。わたしが、マルクス主義を学んだのは大阪市立大学時代、社会科学研究会のOBが来られる合宿なんかにも参加しました。また、大阪市立大学で教鞭を撮られた立派なマルクス主義者の先生方の講演なんぞにも参加しました。いわゆる「オールド(old)ボルシェビキレーニンロシア革命時に率いた党)」の一人です。

 

斎藤さんはご存知でしょうか?ウェブマガジンプロメテウスというサイトに執筆されている「やすいゆたか」さんという、「オールド(old)ボルシェビキ」の一人が、『人新世の「資本論」を読んで幾つか疑問を投げかけているのを。

 

次のように言っています。

本著の最大の欠陥は、この本の内容に、マルクスが「脱成長コミュニズム」を説いている言説の引用が全くないことです。

 さらに、

もしそういう言説があるのなら、マルクス研究者はたくさんいますから、とっくにだれかが紹介している筈です。ですからマルクスが脱成長コミュニストだという評価は、斎藤さんの独特の解釈なのです。

 このかたは、斎藤さんの『大洪水の前に』は読んでおられないようです。それと、『人新世の「資本論」』 がターゲットされている読者と位置づけも考えなければいけないでしょうね。やすいさんは、マルクスはあくまで「成長コミュニズムを唱えているというのがポイントで、「脱成長」はおかしいというわけです。

 

確かに、わたしがマルクスを学んでいたときは、やすいさんのように理解していたと思います。ただ、わたしは、マルクスが想定できなかった要素もあるかもしれない、そもそも土台としている「進化論」に関して大きな疑問(別の機会に述べたいです)があるので、教条主義的にマルクスがどういったかに拘るつもりはありません。マルクスを土台に発展させていけば良いと思っています。しかし、マルクスが本当に斎藤さんが指摘するように述べているなら、それは知りたいのです。

 

斎藤さんが言うように、「晩年のマルクスは……脱成長コミュニズムを説いた」というのなら、どこでそう述べているかを明確に知りたいと思うのです。

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                  Amazon

確かに、『大洪水の前に』では、MEGA(、カール・マルクスフリードリヒ・エンゲルスの出版物、遺稿、草稿、書簡の全集である。1970年代から刊行されている現在の版は、区別のために〈新メガ〉と呼ばれている)の編纂の歴史的動向や議論などを紹介されており、晩年のマルクスのノート類だけではなく、マルクスはかなりの箇所でエコロジーにフォーカスしていると記述されていますね。そして「物質代謝の亀裂」という概念が「経済学批判」のみならず「資本論」の重要なキーワードでもあることを述べられています。ベテランのマルクス研究家は、この本を読むべきですね。

 

マルクスエンゲルスの確執と、未完の「資本論」執筆の経緯など、確かに私たちは学んだ記憶がないことです。

 

マルクス主義者特に「オールド(old)ボルシェビキ」の中では、環境問題を語ることはほとんどありませんでした。それに、「民主主義」や「人間と自由」といテーマのマルクスの理解が混沌としていたということもあります。

 

そのために、「階級闘争を裸で唸るか、ポピュリズムに陥るか」と言った状況に日本の社会主義共産主義者は分かれていったのではないかと、わたしは考えています。特に日本のマルクス研究では、整理しなければならない多くの課題も残ったまま、地下に潜ってしまった感があります。再び斎藤さんの指摘をきっかけとして、その作業が進むことを期待します。

 

ここで重要なことはもう一つあります。斎藤さんやセルジュ・ラトゥーシュがいう「脱成長」の意味です。斎藤さんが本の帯を書かかれているセルジュ・ラトゥーシュの『脱成長』で、明確にこう述べています。

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                 Amazon 

脱成長という語は、…経済成長の対義語でもない。脱成長は何よりも論争的な政治的スローガンである。その目的は、我々に省察を促して限度の感覚を再発見させることにある。特に留意すべきは、脱成長は景気後退やマイナス成長を意図していないという点だ。したがって、この語は文字通りの意味で受け取ってはならない。

 

つまり、経済成長を崇拝しない態度のことであって、単純な経済成長否定ではないということです。きっと「脱成長コミュニズム」をシンプルな階級闘争として論じていない点が、「オールド(old)ボルシェビキ」には、物足りないのではないでしょうか?ただし、資本主義の行き詰まりは、2ちゃんねる創設者のひろゆきさんですら認めるほど多くの人々が認識するところで、京都大学のの大西広先生や法政大学の水野和夫先生、などによっても明快に論証されています。

 

現時点でこの経済成長至上主義による企業活動の結果として、環境危機が取り返しのつかない状況になっているという認識のもとで、「スローダウンしよう」、「ゆっくり生きよう」、そして状況を良くしよう、ということが、「脱成長」の基本にあると思います。でしょ?斎藤さん?

 

現在の資本主義システムの危機は、環境危機にとどまりません。「ゼロ金利」時代が継続している、つまり資本の増殖を宿命とする企業が投資しても儲からない、ですからパンデミックでも過去最高収益をあげている企業が労働者に分配するのではなく、ものすごい額の「内部留保」を抱えるという自己矛盾をおこしていることもまたそのひとつです。これを「資本主義の死」と水野和夫さんは言います。それを、田原総一郎さんは「憎らしいほど説得力がある」と評しています。

 

1970年台の大平内閣の時もそうであったように、不況下で政府が国債を十分出してでも、国民の購買力を高めて内需拡大しないと、ひいては税収も拡大しないという矛盾に政府は直面せざるを得ないくなるわけです。今、過去最高益を叩き出している企業は、内需ではなく海外での収益が中心で、その他というとコロナ禍の巣ごもり需要で予想外の利益が出た企業なんです。

 

財務大臣麻生太郎が、「今年税収はのびたではないか。景気は悪くない!」と言ったそうですが、これを聞いて「なるほど!」と思う方がいるでしょうか?裏に隠された事実をよく洞察する必要があります。

 

パンデミックのような危機の状況下では、国家が介入して経済や市場をも計画的に規制しなければならなくなります。「自由主義」を何よりも強調したあのトランプ元大統領ですら、経済規制をしたほどです。「国家による経済の規制」というと、「共産主義?」と思いませんか?それくらい資本主義の危機が醸成していると言えないでしょうか?

 

斎藤さんは、「コモン=社会的共通資本」の領域を拡大していくことをまず目指されていて、「もう資本主義は無くなってしまてるよ」と多くの人が思える状態になることを期待されていると思うのですが、正しいでしょうか?それは大切な共感を拡大するムーブメントだと思いますが、国境を越えたムーブメント間の絆が大事になると思うんです。いわゆるかつての一国社会主義世界同時革命か、みたいなことでしょうか?

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斎藤さんは、『なぜ脱成長なのか』という本の帯に、「資本主義に亀裂を入れることができるはずだ」と書かれていますね。かつての「反ファシズム統一戦線」や「反独占民主闘争」という言葉を思い出します。乱暴な言い方かもしれませんが、最も凶悪な敵を最小にして、圧倒的多数を形成して倒す、つまり資本主義崩壊への戦術レベルのムーブメントということになりますね。ですから継続して拡大していくことが最も重要です。そして何より、その「亀裂」に「楔を打ち込む」ことです。

 

どうかもしこの手紙を読まれたら、返信をいただければ幸甚です。

 

でわでわ