IT業界にいて感じたことー日本語の偉大さを発揮するということ
IT業界で30年以上も働いていますが、色々な山と谷をみてきました。製品やサービスを販売するために必ずバズワードを広める。また、企業の収益が落ち込めばIT投資も削減される、がしかし、その投資の落ち込みは2年以上は継続しない。などなど。
昨年2020年のIT投資予算は、やはりコロナ禍で減少。しかし、今年2021年は増加に転じるようです。そしてここ数年の流行語大賞は、DX(デジタルトランスフォーメーション)ですね。ITベンダーはDXを印籠として「これが目に入らぬか!」と企業を揺さぶります。
その割には、ITベンダーは正しくDXを理解していない。何でもかんでもDXを枕詞に仕立てて製品やサービスを売ろうとする。コンサルタントは、それをいいことに、「わからぬのなら教えてしんぜよう!」とサービスを売る。こんな感じでしょうか?
一度聞いてみてください、「ではあなたはご自分の企業でどのようなDXを実践されているのですか?」と。DXを売り込みに来るのは、せいぜいITベンダーの部長さんレベルでしょ。責任を持って経営している立場ではないですからねえ。おそらくDXを具体的には説明できないと思いますよ。
わたしは、1987年に就職しました。法学部を卒業したのですが、ソフトウェア開発会社に入ったんです。それまで、コンピュータなんてみたことも触ったことはありませんでした。せいぜいワープロを打ったくらいでした。でもこれからはコンピュータの時代、何をするにも避けられないと思ったからです。
大阪の当時80名くらいの規模の会社でした。当時はわたしのいた大学から、80名の(これでもすでに中堅のソフトハウスと言われていました)しかもソフトウェア開発会社に就職するのは稀有の存在でした。公務員や銀行、IT関連であればIBMや富士通などのゼネコンに就職するのが普通だったんです。
入社して、3ヶ月間の研修を受けることになっていました。数名の先輩が来て、情報処理試験の教科書を使って講義が始まります。1週間して、頭痛とともに怒りのようなものがわき起こってきました。なぜかって?カタカナだらけだったからですよ。
例えば、「ハードディスク」って、わかりますよねえ。ところが、当時わたしの所属したチームは、IBM製のメインフレーム(大型汎用コンピュータ)用のプログラムを制作する仕事をしていたものですから、「ハードディスク」とは呼ばずに「ダスド」と読んでいました。転職した後知ったのですが、英語圏のエンジニアは「ダスディー」と呼んでいたんです。
とにかく、カタカナ表記だらけだったんです。それを初めてコンピュータの世界に飛び込んだわたしに、あたかもすでに知っているかのようにカタカナ言葉を連発されるもので、怒りが湧いてきたんです。
「先輩、コンピュータを仕事にしようと意気込んでるわたしですら分からないのに、仕方なくお使いになるお客様が理解できると思いますか?」と食いついたんです。間髪入れずに「ひょうっとしたら講義されている先輩は、それが何であるかわかっていないからカタカナ用語で済まそうとされているのはないですか?」なんて突っ込みました。
それ以来、先輩達にはにらまれました(😊)。経験のあるエンジニア同士で話すのならカタカナ用語でも、まどろっこしくなくて良いでしょうが、そうじゃない人には例えを用いて説明するとか別の日常使っている言葉で話すよう努力べきでよね。そのためには、言葉のさすものをよく理解していることが求められます。
最近IT業界のトレンドとなっているものの一つに、クラウドコンピューティングというのがあるんですが、最も著名なサービス提供者がAmazon.comです。AWS(アマゾンウェブサービス)というものがそれです。
AWSのサイトに行って、フリーのドキュメントやセミナーなどのビデオをみてみてください。「宇宙人ですか?」と言いたくなるくらいカタカナ用語の連発で、何を言っているかさっぱりわからないことが散見されます。これはほんの一例に過ぎません。
思い出すのは、学生時代に聞いたヘルメットを被ってタオルを巻いて拡声器でアジテーションするにいちゃんです。東大闘争や全共闘のビデオがYouTubeのも上がっていますから一度観てみてください。あと三島由紀夫が東大の駒場キャンパスて論争するビデオをみて観てみてください。
何を言っているのかちんぷんかんぷです。彼らは、マルクスの哲学をそれなりにかじっているのですね。マルクスの唯物論哲学の弁証法の説明の中に「絶対的矛盾の自己同一性」という言葉があります。彼らは、この手の言葉を多用し、しかも簡潔にかつリズミカルにアジテーションしようとするもんだから多くの言葉が省かれて、本当に理解不可能なあるいは自分たちの近しい仲間内でのみわかる自己満足言葉を使うわけですよ。
人とコミュニケーションしようという努力が欠如してるとしか思えないんですよ、わたしには。
「love」を「愛」と訳した最初の日本人は誰かご存知ですか?はい、福沢諭吉です。その後、二葉亭四迷や夏目漱石などの文豪が「I love you」を「死んでもいい」、「月は綺麗」、と訳した。ちなみに「情報」という言葉もまた明治初期に現れています。
加藤周一氏によると、「明治の翻訳主義が急速な日本の近代化の原動力」であったようです。英語で学んだ知識を英語で理解する方法と、母語に翻訳して理解する方法とがありますが、明治の日本では後者をとった。いくつかのアジア諸国、例えばインドではそれが難しかったので、そのため英語を早くから公用語扱いせざるを得なかったそうです。
つまり、西洋の近代技術を多くの人が理解するために、日本語に翻訳した言葉、それが大きく貢献し、小学校から大学までのすべての教育を自国語で行うことができたわけです。言語能力は思考力の基礎ですからねえ。しかも母国語の能力は外国語の能力と比較にならないほど高度。圧倒的に有利だといわけで、明治初期の10年間で奇跡的に日本を様変わりさせたというのです。
それにもう一つ、日本語はひらがな、カタカナ、漢字と3種類の文字形態を持っています。外国語をまずカタカナを使って音で貯蔵する。そしてやがて漢字で母語化するということができる、世界でも唯一の言語。これは、外国語を消化するのに力を発揮するわけです。
まあ、母語を英語にしてしまえば良いのか、翻訳主義が良いのか?はっきりとした、結論は持っていませんが、いずれにせよコミュニケーションする時はしっかり使う言葉を考える、使う努力は必要ですよね。でなければ、英語を公用語化することも考えるべきかもしれませんね。
でわでわ
わたしを覚醒させた書 ー 『人新世の「資本論」』
フィリピンのルソン島に、タガイタイという阿蘇山のカルデラのような所がある。ここにスターバックスがあって、素晴らしい眺望の中でコーヒーを楽しむことができる。わたしは、ここが大好きで、日本からの訪問者があれば必ずお連れしたものです。思索と想像に耽るにはもってこいの場所。
YouTubeで知って急いで購入した、斎藤幸平さんの書かれた『人新世の「資本論」』という書物があります。彼がわたしの通った大学で教鞭をとっている准教授だという親近感も加わって、またマルクス主義者であるというシンパシーも手伝って、食らいついたわけです。
思い起こせば、高校3年の頃でした。思索に耽ったり、詩を書いたりすることが好きでした。共通一次試験の最初の世代だったのですが、「小論文」という試験が2次試験に導入された頃です。決して「小論文」対策というわけではないのですが、太宰治、織田作之助、中原中也、加藤周一、三木清、などの本をよく読んでいました。漠然と哲学科に進みたいなあと思っていました。まあ、実際には、わたしを法律家にしたいという父に負けて法学部を受験したのですが。
如何せん1校のみを受験したため、それが不合格となり、残念ながら浪人することになりました。高校3年生の時、実家は太秦映画村のすぐそばだったのですが、父が京都の鞍馬の入り口近くにある二軒茶屋(家の裏を京福電鉄が走っていました)というところにもう一軒家を買ったので、そこから塾(樫の実学園:京都市上賀茂)へ通うようになりました。貴船川の辺りに降りて、本を読むのが日課でした。
稲垣真美さんという岩波新書『ブッダを背負いて街頭へ』や『兵役を拒否した日本人』などを書かれたノンフィクション作家が、通っていた塾の小論文の講師として赴任されました。その頃、親にねだって京都大学で教鞭ととった哲学者の『西田幾多郎全集』を買い揃えてもらい、先生とよく議論したのを覚えています。
法学部へ進学したのですが、そそくさと法律家は向かないと思い方向転換。法解釈学がつまらなくて、「なぜその法律がその時できたのか?今でも有効なのか?」というテーマに関心があり、法社会学や国法学を専門としたんです。大学には、甲斐道太郎先生という著名な民法学者で、法社会学の分野でも名の通った先生が2年に一回法社会学ゼミを開かれていましたので、参加することにしました。国法学は、ドイツの憲法理論を研究されている栗城教授でした。
なんとゼミ生はわたし一人、先生も「おおう、久しぶりのゼミ生だよ」とおっしゃってました。多くの学生は就職を意識して民法や行政法のゼミに行くんですねえ。わたしは異端児というわけです。
テキストは、藤田勇先生の『法と経済の一般理論』、つまり「法のジェネシス論」(法の生誕の根拠)というマルクス主義に基づいた難解な書物でした。参加したサークルも「人権法律研究会」という冤罪事件や法曹の問題や矛盾を研究するところで、社会科学というマルクス主義を学ぶ例会もあり、マルクス主義法学を学間キュの中にいたというわけです。
ということで、わたしは、すっかりマルクス主義の洗礼を受け、学生運動にも飛び込む羽目になりました。法学部には、唯一全学部生の中から選出された執行部や代議員が率いる自治会があり、私は委員長になってしまいました。労働組合や釜ヶ崎の日雇い労働者に連帯して、でもにもよく参加しました。
また、ヘルメットを被った兄ちゃんたち(革マル派、中核派、第四インターなど)や共産党系青年組織の民青などともぶつかりながらやってましたねえ。わたしから見れば、自称「マルクス主義者」で歪んだマルクスの理解者にすぎませんでしたけどね。
こんなわたしは、長らくマルクス主義を堅持してきたのですが、いくつか疑問も持っていました。でも、ソ連崩壊後、マルクスを語る当時の友人も教授もめっきり少なくなり、以来、深く考えることがほぼなくなってしまったわけです。
そこにこの書『人新世の「資本論」』が登場したわけです。しかも、著者の斉藤幸平しは、わたしがマルクス主義の洗礼を受けた大阪市立大学の准教授ですよ。読まないわけにはいかないでしょう!
驚いたのは、ソ連邦の崩壊とベルリンの壁崩壊後、マルクス主義がまるでタブーのようなり、東大ではマルクス主義の教官は雇わないとか、全く学問の自由を無視したようなイデオロギーで差別するようなことまで起こっている中で、20万部以上というこの種の本としては特大ホームランを打ったことです。
ピケティの『21世紀の資本』出版以降、斎藤幸平さんの『大洪水の前に』あたりから俄かにマルクス主義系の書物が世に出てくるようになったんですよね。特にこの『人新世の「資本論」』は、「はじめに」で「SDGsは大衆のアヘンである」という、衝撃的な言葉から始まっているのには、驚嘆させられました。マルクスが言った、「それ(宗教)は民衆のアヘンである」(『ヘーゲル法哲学批判序論』)をもじったものでしょうが。
わたしにとって、マルクスと環境問題とは、即座に結びつかなかった。斎藤幸平さんは、マルクスの晩年の研究が、環境問題に割かれていることやコミュニズムの新たな視点に注がれているとしていることは、新鮮だった。学生時代に齧り立いたマルスクスでは、環境問題など直接的になは出てこない。しかも彼は、現在34歳という青年!
そういえば色々なデータや調査を見ていると、最近、アメリカでも政治家が堂々と社会主義者を標榜し若者がそれを支持する、日本では起業する若者や就活している若者に社会貢献や豊かさの新しい感じ方などが見て撮れるんですよね。
これは、政治家や資本家のやっていることの結果が、資本主義の末期症状に来ていることの証拠なのでしょうね。そのアンチテーゼとしての運動(movement)が社会矛盾にセンシティブな若者を通じて表層に出てきているということなのでしょうか?
さまざまなアンケートの国際比較では、日本の若者の特徴として「自信がない」ということが表れています。だから、かつてのようにデモンストレーションのような形にならないだけなのでしょう。内閣府は2019年6月18日、令和元年(2019年)版「子ども・若者白書」を公表し、「日本の若者の「自己肯定感」は諸外国の若者に比べて低く、欧米など6か国との比較でもっとも低かった。」としています。
この点については、機会があれば深掘りしてみたいですねえ。でも、わたしは決して暗くなりはしません。きっと若者が、良い未来を築く行動に出る時がくろとコーヒーを飲みながら想像しています。
でわでわ
懐かしき出逢いが成長の肥やしでした
大学時代、ブルガリアのソフィア大学に留学したいなあと思っていた時期があった。ファシズム研究の権威であった山口定教授から「そこへ行ってもファシズムの研究はできないと思うよ」と言われたのを覚えている。
初代大統領になったディミトロフの著『反ファシズム統一戦線』に触発され、レジスタンスの研究をしたっかたのですよ。でも、結局かないませんでした。
わたしは、大学時代に反核・平和運動団体である「オリーブ」というグループを立ち上げました。おりしも軍縮学連が多くの大学に結成された頃で、ヨーロッパへの中距離核ミサイル・トマホークの配備が問題になっていました。ヨーロッパでは、「緑の人々(緑の党として知られる)」が反核運動を、特にドイツで主導していました。
わたしの後輩で部長を務めていた学生を、ヨーロッパでの反核10万人行動に参加させるべく街頭でカンパを募り、おかげで幸運にも派遣できたのです。彼が、帰国してあちらこちらから報告してくれないかと招かれ、また、公園などで報告集会も主催しました。
そんな頃、わたしは多くの方とお会いすることができ、それも本当に貴重な出会いばかりでした。栗原小巻さんが出られた映画にもなった『サンダカン八番娼館』を書かれた山崎朋子さんとの出会いも本当に有意義な時間でした。よく「遊びにいらっしゃいね」と優しく声をかけていただきました。彼女は、本当に簡単ではない人生を生きてこられました。とても学びの多い出会いだったと感謝しています
また、「反核産業人の会」という、企業の社長さん達で作られた組織があって、学生が真面目に反核運動してるぞと興味を持っていただき、交流が始まりました。ほとんど語られない戦時中の反戦活動家や反体制活動家の話をたくさんしてもらいました。中でも、堺市におられた宝木武則じいちゃんには、よ〜くお供させてもらっては昔話を聞かせてもらいました。
彼は、エスペランティスト(世界語を目指して作られた言語)で、偉大な功績をお持ちでした。日本共産党が最初に戦時下の日本に持ち込み、翻訳したとされていたディミトロフの『反ファシズム統一戦線』、それは真っ赤な嘘でエスペランティストであった宝木武則じいちゃん達であったんですよ。1985年8月、反ファッショ人民戦線五十年を記念し、ブルガリアから国賓招待され、デイミトロフ勲章とパルチザン勲章を授与されたのです。
2007年に永眠されましたが、いつもお茶目で優しく、でも苦難に満ちた過去をお持ちのおじいちゃんでした。色々な貴重な過去の話を聞かせてもらいました。今もわたしの宝物です。例えば、宝木さんの同志でもあった米国在住のカール・ヨネダ氏や石垣綾子さんが『オリーブの墓標』にお書きになったジャック・白井氏の話は、本でも得られない感動の話でした。
在日2世たちは、第二次対戦のさなか米国で本当に苦労されたわけですが、そんな中からスペイン市民戦争にレジスタンスとして馳せ参じ戦ったジャック・白井氏の生き様はわたしの人生に大きな刺激を与えました。
学生に頃ですから、本当の意味で世間を知らないでしょ。学生の先頭に立ってはいても自信があるわけではない、ないわけですよ。これらの出会いの最大の学びは、百折不撓(ひゃくせつふとう)とでも言いましょうか、そんな気概を作り上げていくモチベーションを与えてくれたわけですね。
日本での教育では、「奥ゆかしさ」「控え目」「婉曲」を良しとすることを教わりますから、諸外国の若者のようにはっきりと自信のある自己主張をするなど美徳としませんから、若者が自信に満ち溢れた姿を世に見せられるなんぞは、稀有なことなんですよね。
でもこれだけSNSが発達し、個人がメディアになれる時代ですから、陰で卑屈にも炎上に加担したり、いじめをしたり、ヘイト発言をしたりするような輩は別だけれども、若者にも自己主張をする場は、わたしたちの時代とは違いいっぱいあるわけですよ。
SNSを提供するYouTubeやFacebookのような企業は私たちを利用してお金儲けをしているかもしれませんが、若者はそれを利用しつつも自分たちの幸福のために使う知恵と術を持っていると確信しています。
でわでわ
徒然なる旅が始まる ”のんびりゆこうよ”
今、浜辺にいるつもりでトロピカルな音楽を聴いている。人生も60年を過ごし、少し「ゆっくり」と生きようと思っています。
プログというものを書くのは初めてではない。ただ、多くの刺激を受けて、また還暦の年というのもあるかもしれないが、再び性懲りも無く書き始めるのです。
わたしは、昨年2021年の8月15日の終戦記念日に、13年のフィrピン生活にピリオドを打って、日本に帰国しました。家族もでき、妻と次女を連れて帰国しました。長女は、フィリピンで医学を学んでおりまして、連れてくることはできませんでした。
終戦記念日だったのには全く意味はなく、パンデミックの中、直行便でセブから成田に行ける便がこの日であって、それまで医師からヘモグロビンが十分ではないから飛行機に乗る許可は出せないと言われ、結局この日になったというわけです。
正直を言うと、長い糖尿病もちの結果、腎臓を悪くし透析が同年の6月から始めなければならなかっという事情です。日本のように皆保険制度はなく、実費を病院に支払わなばならないという事情がフィリピンにはあります。透析は1回あたり1万5千円ほど掛かりまして、週に3日ありますから、月に20万円近くかかるのです。
これでは野垂れ死すると思い、帰国したと言うのが真相なのです。日本では、透析患者は障害者扱いとなり、政府や自治体からさまざまなサポートを受けられることを知りました。医療費は完全に無料となります。そこを見れば素晴らしい国です。でも、少しづつ改悪され始めてますけどね。
わたしは、話題になっている副業トイして、ライターができないかと、勉強を始めました。Youtubeやブログで有名なマナブさんのコンテンツを視聴し、ノウハウを勉強しました。そして、実践に学べとばかりさまざまなWebコンテンツを訪れました。
「えっ!ちょっと待てよ!」、ほとんどが「大タイトルー小タイトルー画像ー本文」そして2、3行の文章ごとに大きく改行する。これが「常識」ってやつですかねえ?何か、個性を感じなくて「違和感」を感じてしまうのはわたしだけでしょうか?
ってことで、社会派ブロガーとして多くのファンをお持ちの「ちきりんさん」のブログを読みに行きました。ちきりんさんは、全く我関せず、我が道を行く、って感じで巨塔のように見えました。
『自分の頭で考える』と言う本をお書きになっていますが、まさにそのことを実践で教えてくれています。しっかりしらべ、自分の忌憚のない意見や分析を書く。なんと素晴らしいと思いました。
ちきりんさんのようなブロガーになりたいと、淡い夢のもとスタートしたってわけです。「お前さん、ぜんぜん役不足だよ」って笑わないでくださいませ。
わたしが、世の中に自分の意見や分析を始めて世に出したのは、大学時代でした。覚えていらっしゃいますか?1986年10月11日のレーガン:ゴルバチョフによるレイキャビックで行われた各軍主会議を。1983年には、ヨーロッパで大反区運動のうねりがありましたよね。
わたしは、階段の1年ほど前に軍縮が合意されるか塚で、悲観的な見方も多かったなか、全世界でうねっているさまざまな要素(事実)に基づいて、「核軍種は必ず合意される」ことを雑誌に寄稿しました。これが初めてでした。階段の結果を見て「やった〜、でしょ!」なんてでかいツラをしてたのを思い出します。
その後、就職しプログラマーからIT産業アナリストに転職してしばらくした時に、ソフトバンクの『Database System』誌(1996年廃刊)の編集長から、何か書きませんか、と声をかけられました。それまで、カリフォルニア州のラジオ番組でマーケティングを話題にしていた番組から取材を受けたり、ジフデービス(ソフトバンクに買収)の『Information Week』誌から日本のBPRについてインタビューされるなどのことはありましたが、寄稿は初めのことでした。
生意気にも「ITの話題がメンズクラブやオレンジページなんかで出てこないとダメだよねえ」なんて雑誌記者なんかに行っていたわたしは、『Database System』誌の編集長に「コラムはどうですか?テーマはお任せします」と言ってもらって「よっしゃあ!」と意気込んだのでした。
奇しくも世は、1990年、Windows3.0の発売で持ちきりだった頃です。カリフォルニアのサンノゼに出張で、サンフランシスコのMacworldに参加していた時、『ニューヨーカー』と言う雑誌のWindows3.1の広告を見ました。「Windowsは、あるタスクをしながら別のタスクができる、チューインガムを噛みながら歩ける」と言うキャッチでした。
Macユーザーだったわたしは、「おう、ようやくそこにきたのか」と揶揄したのを覚えています。それをアパレル業界の話を取り上げながら、「マイクロソフトさん、チューインガムのように吐き捨てられないようにお気をつけ遊ばせ!」みたいなオチでコラムを終えました。
「結構、反響ありましたよ!」と言ってもらって、鼻高々だったわたしでした。その後、IT系の雑誌、新聞、Webメディアのブログ、などに寄稿してもらってました。あまり、期限を守らない、誤字が多い、と言われtました(😊)。目が悪いので許してください。
性懲りも無く、ここにきて再度ブログを書こうと思い立った次第です。どうか仲良くしてくださいませ。
でわでわ
初乗りのしらべ ー 初めまして
今、浜辺にいるつもりでトロピカルな音楽を聴いている。人生も60年を過ごし、少し「ゆっくり」と生きようと思っています。
プログというものを書くのは初めてではない。ただ、多くの刺激を受けて、また還暦の年というのもあるかもしれないが、再び性懲りも無く始めるのです。
わたしは、昨年2021年の8月15日の終戦記念日に、13年のフィリピン生活にピリオドを打って、日本に帰国した。家族もでき、妻と次女を連れて帰国しました。長女は、フィリピンで医学を学んでおりまして、連れてくることはできませんでした。
終戦記念日だったのには全く意味はなく、パンデミックの中、直行便でセブから成田に行ける便がこの日であって、それまで医師からヘモグロビンが十分ではないから飛行機に乗る許可は出せないと言われ、結局この日になったというわけです。
正直を言うと、長い糖尿病もちの結果、腎臓を悪くし透析が同年の6月から始めなければならなかっという事情です。日本のように皆保険制度はなく、実費を病院に支払わなばならないという事情がフィリピンにはあります。透析は1回あたり1万5千円ほど掛かりまして、週に3日ありますから、月に20万円近くかかるのです。
これでは野垂れ死すると思い、帰国したと言うのが真相なのです。日本では、透析患者は障害者扱いとなり、政府や自治体からさまざまなサポートを受けられることを知りました。医療費は、完全に無料となります。そこを見れば素晴らしい国です。でも、少しづつ改悪され始めてますけどね。
わたしは、話題になっている副業として、ライターができないかと勉強を始めました。Youtubeやブログで有名なマナブさんのコンテンツを視聴し、ノウハウを勉強しました。そして、実践に学べとばかりさまざまなWebコンテンツを訪れました。
「えっ!ちょっと待てよ!」ほとんどが「大タイトルー小タイトルー画像ー本文」そして2、3行の文章ごとに大きく改行する、と言うふうに書かれているではないですか。これが「常識」ってやつですかねえ?何か、個性を感じなくて「違和感」を感じてしまうのはわたしだけでしょうか?
ってことで、社会派ブロガーとして多くのファンをお持ちの「ちきりんさん」のブログを読みに行きました。ちきりんさんは、全く我関せず、我が道を行く、って感じで巨塔のように見えました。
『自分の頭で考える』と言う本をお書きになっていますが、まさにそのことを実践で教えてくれています。しっかりしらべ、自分の忌憚のない意見や分析を書く。なんと素晴らしいと思いました。
ちきりんさんのようなブロガーになりたいと、淡い夢のもとスタートしたってわけです。「お前さん、ぜんぜん役不足だよ」って笑わないでくださいませ。
わたしが、世の中に自分の意見や分析を始めて出したのは、大学時代でした。覚えていらっしゃいますか?1986年10月11日のレーガン:ゴルバチョフによるレイキャビックで行われた核軍縮会議を。1983年には、ヨーロッパで大反核運動のうねりがありましたよね。
わたしは、会談の1年ほど前に軍縮が合意されるか否かで、悲観的な見方も多かったなか、全世界でうねっているさまざまな要素(事実)に基づいて、「核軍種は必ず合意される」ことを雑誌に寄稿しました。これが初めてでした。会談の結果を見て「やった〜、でしょ!」なんてでかいツラをしてたのを思い出します。
その後、就職しプログラマーからIT産業アナリストに転職してしばらくした時に、ソフトバンクの『Database System』誌(1996年廃刊)の編集長から、「何か書きませんか」と声をかけられました。それまで、カリフォルニア州のラジオ番組でマーケティングを話題にしていた番組から取材を受けたり、ジフデービス(ソフトバンクに買収)の『Information Week』誌から日本のBPRについてインタビューされるなどのことはありましたが、寄稿は初めのことでした。
生意気にも「ITの話題がメンズクラブやオレンジページなんかに出てこないとダメだよねえ」なんて雑誌記者なんかに言っていたわたしは、『Database System』誌の編集長に「コラムはどうですか?テーマはお任せします」と言ってもらって「よっしゃあ!」と意気込んだのでした。
奇しくも世は、1990年、Windows3.0と3.1の発売で持ちきりだった頃です。カリフォルニアのサンノゼの本社へ出張しており、サンフランシスコのMacworldに参加していた時、『ニューヨーカー』と言う雑誌のWindowsの広告を見ました。「Windowsは、あるタスクをしながら別のタスクができる、チューインガムを噛みながら歩けるようなもの」というキャッチでした。
Macユーザーだったわたしは、「おう、ようやくそこまできたのか」と揶揄したのを覚えています。それをアパレル業界の話を取り上げながら、「マイクロソフトさん、チューインガムのように吐き捨てられないようにお気をつけあそばせ!」みたいなオチでコラムを終えました。
「結構、反響ありましたよ!」と言ってもらって、鼻高々だったわたしでした。その後、IT系の雑誌、新聞、Webメディアのブログ、などにずいぶん寄稿させてもらいました。あまり、「期限を守らない」とか「誤字が多い」、と言われてましたけど(😊)。目が悪いので許してください。
性懲りも無く、ここにきて再度ブログを書こうと思い立った次第です。どうか仲良くしてくださいませ。
でわでわ